陽性者と家族の日記

バースデーケーキ(長文)

先日、誕生日を迎えた。
もう毎年のように、パートナーとその日は出かけ、バースデーケーキを買って、プレゼントを貰う。

今年もそれがやってきた。
来る度に悪いなぁ…。でも嬉しいな。ありがとう。と思う自分がいる。
大事な人が生まれたことに感謝する日。尊い日だなぁとおもう。

これが当たり前のようになっている今、ふと昔を思いだせば、そういえば、誕生日って祝って貰った事が無かったんじゃないかっていう事に気付いた。

小学生の半ばぐらいから、あるいはそれより前だったかもしれない。親に誕生日を忘れられている事が多かった。

だいたいいつも、その日を暫く過ぎてから、「…こないだ、誕生日だったんだけど。」
というと、「あぁ、そうだったっけ。」という感じで終わる。
誰も来ないんだから、もう、する必要もないでしょ
‥ああ、そうなのか。そういうものなのか。誰も来なければ、何もやることはないのか。何も言わなくてもいいのか。

何年かに一回は、その後に父親が図書カードをくれたり。

それぞれの誕生日を、あまり皆覚えてなかったんじゃないだろうか。

僕は一応、家族全員の誕生日を覚えていて、おめでとうと言っていたんだけれど、そのうちに誰も自分の誕生日に何も言ってくれないという事がわかり、僕も言うのをやめた。

そんな気持ちなんて要るもんか。そんな弱い人間じゃないと強がってはいたけれど、本当は心のどこかで欲しかったのかもしれない。
その日が来る度、今年こそは何か言ってくれるんじゃないか。そう期待していたんだけど、いつも何もなかった。
あぁ、またか。今年もか。何を期待していたんだろう、いつものことなのに。いつも何かを期待しては肩透かしを食らう。

もう諦めたのに。何も期待しないって決めたのに。何も求めちゃいけないって思ってたのに。

ケーキとか。そういえば買って貰った事がない。小学生に上がる前か上がった直後ぐらいに、他の子達が来るから…。
といったような理由で、親が仕方なしにと作ったりしていたのは覚えてる。

あの、よくお店で売ってる丸いバースデーケーキ。

あれを自分の為に初めて買って貰ったのは、僕が二丁目に行き出して、付き合う人が出来てからだったんじゃないかと思う。

付き合うというか、今思えば自分にとって、父親の代わりをしてくれていた人。
実の父親より6歳か10歳程年上の、外見も性格も正反対の人。

僕が10代で年の差は40歳近くあったと思う。

うちはお金が無かったわけではなく、寧ろ平均的なサラリーマンよりも収入はあった。
借金もなかったし。
だから買えないと言うことはなかったろう。

その人は、今日はみのるの誕生日だから、みんなで食べてくれと言って、当時良く連れて行ってくれた行き付けのスナックで、先に待っていた僕に丸いバースデーケーキを買ってきてくれていた。そうして、ロウソクに火を付けてくれた。

店の中が暗くなる。

ロウソクの灯りだけが、店内を照らしてる。
ハッピーバースデーの唄をみんなで歌ってくれる。自分の名前を言ってくれておめでとうと言ってくれる。

ほら、吹き消してと言われて、はい。って言って吹き消した。

真っ暗になる。

おめでとう。とお店の中にいたママや、顔も知らないお客さん達が言ってくれる。

その瞬間ふと、5才6才のときに友達の子達とその親を呼ぶからとやったパーティーを思い出した。
そういえばあの時他の子の誕生日も兼ねてやったせいだろうか。

ケーキに立てられたロウソクを吹き消した事なんて、無かったと思う。
一回や二回は、何処かであったかもしれない。

でも、こんな形では無かった気がした。

自分の為だけに。

丸いバースデーケーキと、おめでとうの声。
おそらく無かった。

店内ではまだおめでとうの声と拍手が上がっている。

凄く気恥ずかしかった。凄く嬉しかった筈なのに、何処かに隠れてしまいたいような気持ちになった。

恥ずかしさや照れを隠すように、もういいよ。とケーキのカットを促す。

なんだかどう対応していいのかわからなかった。
あんまり久しぶりの事だったから、どう反応したら良いのか良く分からなかったんだ。

でも、これだけは覚えている。

ありがとうって、心の底から思ったこと。

色々な感情が渦巻いている気持ちの奥底にあったのは、自分なんかのためになんでこんなことしてくれるんだろう。顔も知らない人もいるのに。
何でだろう。良く分からない。
嬉しいはずなのに、何故か涙が出てきて泣きそうになるから、それをこらえるのに必死になった。
みんなに分からせないようにしたかったから。

でも、…ありがとう。
その気持ちだけ、ずっとずっと覚えてる。

ふと、そんな事を思い出した。唐突に。

僕はあの街に救われたのかもしれない。
傷つけられた事もいっぱいあったけど、それ以上に僕を包み込んでくれた。
居場所を提供してくれていた。

あの街が無かったら、僕の今は無かったかもしれない。

当の昔に、頭の中に何度も思い浮かべていた「真っ白い何もない場所」に行っていたかもしれない。

幼い時から自分の頭の中に漠然と思い描いていた、逃避の場所。

それを具現化すると、死ぬという事だったんじゃないのかと気付いたのは、ずっと大人になってからだった。

以前の日記に、今が一番生きるということに執着があると書いたのは、そこからきている。

以前に思い書いたことがある。二丁目に来なければ、こんな病気にかからなかったんじゃないか。
もっと親に甘えていれば、他に寄るべき所を見つけていたら、別の結果になっていたんじゃないかって。
でも、そうじゃない。彼等の何処に甘える隙を見付ける事ができたんだろう。
与えられた選択肢からそれを選びとったのは、それしかなかったからじゃないのか。

病気になったのは、その場所にいたその人達のせいだなんて、責任転嫁も良いところだ。甘ったれるな。
行動に対しての当然の結果だ。

彼等は良くしてくれたじゃないか。甘えたり寄り掛かる存在のない僕に、暖かい場所を用意してくれてたじゃないか。話しかけてくれたり、抱き締めてくれたり、愛してくれたりしてくれてたじゃないか。
例え商品の様に扱われていた時でさえ、自分という人間に興味を持ってくれてたじゃないか。
どんな事をこの子は考えているのかなって、話しかけてくれてたじゃないか。

あの場所がなければ、彼等が居なければ、僕は自分の気持ちを昇華する事が出来ずに、何処かで爆発させてしまってたかもしれない。

子が親を殺す気持ちというものを僕は、痛いほど理解することが出来る。
自分もそうだったからだ。
罵られ、叩かれ、殴り続けられる度に。

嵐のような情景の中。最初の頃は、ごめんなさい、ごめんなさいとひたすら謝っていたのだが、謝ることは却って刺激させてしまうことだとわかり、じっと耐えていた。

自分を他の場所から見ているように痛みを感じなくなった。

そのあと、しばらくしてからふいに心の奥底の方から芽生えた小さい殺意。
それが大きくなっていくに連れて抑えが効かなくなっていくような気がしていた。

あの時その思いを昇華できなければ。

いつしかそれは破裂していたと思う。

17歳の時だった。
学校からの帰り道、自転車に乗って帰っていた。目の前、5歳か6歳の子がお母さんと遊んでいた。
頭の中がカッとなる。真っ白くなる。光景が歪む。スピードを上げる。その子に向けて。
なんだか許せなかった。無性に。
今思えば、それは嫉妬や妬みに似た感情。
自分には無かったもの、欲しかったものを持っている者に対しての。
とても、身勝手な考えだ。例え僕がどういう環境で育ったのであろうが、そこにある笑顔を奪う権利など何処にも無いのに。
僕を見つけたお母さんの顔が強ばる。何するの。止めて!
その表情から読み取れたような感情。

ハッと、我に帰った。ブレーキを全力で踏み込み、その子の直前で止まった。
子供は僕を見ている。
その表情には怯えも恐怖もなく、ただ僕を見ていた。

綺麗な目で。

‥何てことをしようとしたんだろう。
僕は逃げた。全速力で。全部を振り払うように。
家に着いて、部屋に飛び込み、机の引き出しからラッシュを取り出し一人で処理した。
訳分からなくして、無かった事にしたかったのだ。
当時ラッシュはいっぱい買い込んであって、引き出しの中にしまってあった。直ぐに揮発してしまうので、いつも強い状態が保てるように。
16歳の頃から使い始めたこの物体。好んで使っていた。高校のトイレや帰り道の駅のデパートのトイレ。
人気のない図書館の片隅。いつも持ち歩いていた。タバコと一緒の精神安定剤みたいに。
嫌なことや逃避したいことがあると、良く使って一人で処理をしたり、たまのセックスの時に使ったり。

依存性は無いようで、今のところ何も影響はないが。

もう一つの選択肢。

それがこれだ。

弟以外の家族を全部殺して。目の前に入る気に入らないもの片っ端から壊して殺して自分も死ぬ事。

護身用にと嘘吹いて持ち歩いていたナイフは、いつでもそれが実行出来ると安心出来たもの。
持っていると、落ち着いた。嫌なことがあれば、これで自分の首でもかっ切ればいいと。

一見普通に見える、大人しそうな少年の、内に巣食う狂気。
今ならそう表現できる。

でも。

この選択肢は選ばなかった。選べなかったのだ。
殺意を向けたのは初めは母親だった。

中学生の時。いつものように、罵り殴り付けようとした母親。
不意に、それを振り払う事が出来た。
その事に驚くと同時に、心の中から声が沸き上がる。
さあ、今だ。今までされてきたことをそのままやり返せ。お前なんかって。気持ち悪いって。言われたように罵ってやれ。感情の赴くまま、金切り声上げながらはけ口として、叩き、殴り続けるんだ。そして‥。
壁に片腕で押さえ込み、首に手を伸ばし、締め付け‥。

出来なかった。

出来なかった。

代わりに壁を殴り付け、蹴り続けた。

そのあと、彼女からの暴力は止んだ。言葉の暴力は一層強くなった気がするが。

どうせなら、彼女と同じような人間から自分と同じような子供を守るために、行動したかった。

そうした事もあったんだ。泣き続ける子供に、アイスや飴をあげて、泣き止むまで頭をなで続けてやったりもしたんだ。

5歳6歳ぐらいに、雪の降り続くなか、親からの暴力から逃れようと一緒に手を引いて逃げた弟を抱き締めたように。

でも、その頃の僕は壊れてしまっていて、それすら、出来なくなっていたみたいだ。

あの場所に出だしてから。一人で誕生日を迎えた事はない。常に誰かが居てくれる。

彼氏や友達、お店のママ。その日が来ると当たり前のようにおめでとうと言ってくれる。
あの場所に良く出入りするようになってから、僕はもうあの時程の狂気を持ち出すことは、なくなっていた。

自暴自棄になったことはあるが。
それは自らを傷付けただけ。あまり大した事じゃない。
傷の大きさがまるで違うのだ。

その後何年かして、病気が分かった一年後、弟に子供が出来て、その赤ん坊が僕を見て笑った。

思わず笑みがこぼれて、なんとも言えない感情が涌いてくる。
幼い頃、弟を守らなきゃと抱き締めた時の感情に近い。

それから、僕は今までより一層子供が大好きになった。

そうして、今ここにいる。
パートナーと二人で住むには少し手狭なこのマンション。
10年という節目の時に、色々な事を思い出した。
今のパートナーとの生活。
それは子供の頃から自分には、絶対に手に入らないものだと諦めていたもの。
今、得ることが出来た。
それを守りたい。

今まで何気なく繰り返してきてしまった、パートナーと一緒の誕生日。
その10回目の誕生日を祝って貰った時に、強くそう思った。

誕生日は、感染したことが分かった日でもあるけれど、その記念日はあまりもう意識しなくなったんだ。

それ以上に大事なものを手に入れることが出来たから。

…ありがとう。

みのる

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