ピア+トーク

「〜infield fly〜」浅草、jelly beans(初参加/2017.6.15/HIV陽性+間質性肺炎 告知/服薬10ヶ月)

あの日唐突にそれは宣告された。それは、去年の夏ほおずき市で買った風鈴が一縷の雨が途切れて落ちた瞬間突然”パチン”と弾けて落ちたかの様だった。そんな突然の出来事に肩より低く首(こうべ)を垂れて床に落ちる筈の涙を何時迄も待っていた。昔、酷い虐待に遭い部屋の隅で膝を抱えて“きっと大丈夫だ”と強い希望を持っていたあの頃の幼い自分も謗らね顔で黙ったままだった。飛び散ったガラスの破片で切れた足の指から止めどなく流れる己の血、それが原因で愛する人にもインフェクションするなんて今でもその宣告を何時迄も続く真夜中のイリュージョンの様に信じることが一切出来ないでいる…
去年の夏、月に何度も熱発や激しい咳、口内炎と背中や全身の関節痛で夜は殆ど眠ることが出きないで心が病み初めて半年以上が過ぎた頃いよいよ人間崩壊を予感し始めそんな己と決別したいが為に検査の為某大学付属病院に入院した。その間に以前掛かっていた区立の病院では陰性と結果が出たHIV検査だったが再度行った検査では陽性と診断され血の気が引いた。その検査報告を勤務先にした事から明らかに虐めの様なものが始まった事をまた思い出し唇を血が出るほど噛み咽頭の辺りに出ている水泡の中の膿をそのまま一気に飲み込んだ。首を切り取られた鳥の死骸が自転車の籠に入れられたり。更衣室のロッカーに“死ね”と油性の赤マジックで書かれた!私は、今度は誰に何を話し説明したらいいのか真剣に悩み苦しんだ。話せばまた虐められるそれに耐える覚悟など何処にも無い惨めな気持ちのままで過ごしていた。大好きだった"ドリス・デイ"の「ケ・セラ・セラ」も実際には聞いた事は無いが地獄で流れる子守唄の様に聞こえた…その時初めて"死にたい”と本気でそう思った。そして、難病も同時に進行している事など一切耳の中に入ら無い程HIV陽性の宣告は残酷だった…
何日も治ると信じて足を運ぶ医療機関に対し一行に改善されずに苛立ち殺意にも似た感情を持つ私の姿を一番に知っているのは17年前の9月に日本では初と言われた神前婚を名古屋の某チャペルで行った8歳年下の連れが必死に私の奇行に耐え、二頭の愛犬と共に見守ってくれていた…
初めて参加した「ピア+トーク」の中でとても強く感じたのは、私の時もそうだったが1番大切な“インフォームド・コンセント”がしっかりと実施されて無い事だった。スピーカーの方の中に医師から「年齢的に、A型ワクチンを打たない。」との話が有ったと発言が有ったがそれは何故なのか納得ができなかった。やはり同性愛者に対し特有の疾患に関しては医師も知識不足だったりモラル的な問題が優先してしっかりと踏み込んでいけないのでは無いのだろうか?双方が真剣に向き合う事の出来ない何か閉鎖的なものが有ると強く感じた。ゲイはリアルを好む者でモラルを重んじている者は多数派に対しての見解や治療に従事して行かなければならない現実に寂しさを増した。
帰りのバスの中思った。貞操観念を自主規制で縛り、長年我慢して来た反動がこんなにも大きな衝撃に変わってしまったと自己嫌悪に囚われた。だけどその結果、私が幼い頃毎晩隣の部屋から安いベッドが軋む音がする理由や母が「母親である前に。女でいたい。」と泣いて土下座した理由や愛は努力からは決して生まれなかった事がやっと理解分出来た。皆んな同じ器ではなく、決められた範囲で何て有り得無いのだと。そして私は、“HIV陽性”と宣告されてやっと全てが許せた気がした。
それでも幸せは唐突にやって来ると今でも信じている。それは、緑と黄色と赤の三色が雨に滲んで何処までもそのコントラストが続いていた夏の午後。そんな雨の動物園でも我々は笑いながら語らい誰よりも有頂天で手作りの弁当を食べた。誰よりもどんな2人よりも幸せだった…
一度は諦めたけど今“生きて行きたい”と強く思う。それは分かって貰えなくてもいいどうしても伝えたい想いがあるから。そして“あの場所でもう一度初めから”と心からそう思う。

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