陽性者と家族の日記

「今ここで人生が終わっても何の後悔もない」

先日、家でのんびり過ごしていた時に、こんなことを思いました。今ここで人生が終わっても何の後悔もないなと。僕には何としても守らなければならない人や、財産や、社会的地位なんてものは何一つない。けどそれは悲しいことではない。僕が生きていることが何かの前提になっていたら、寿命を全うするために毎日欠かさず薬を飲まなければならない僕にとってそれは耐えがたいプレッシャーだし、大切な人たちが重荷になる人生なんてむしろ嫌だから。

そういえば前にも同じことを思ったような気がします。それは確か、HIVに感染していることが発覚して間もないころ、「治療しなければいずれエイズを発症し死に至る」ことを受け入れ、感染前よりも身近になってしまった「死」について考えたときでした。治療しないという選択肢が自分にあったわけでないけど、万が一治療がうまくいかなかったり、何らかの事情で通院をやめざるをえないとき、その先に待ち受けるもの、つまり死ぬということを自分なりに理解したかったのでしょう。

2017年2月に感染がわかって3年が経って、なぜまた同じことを思ったのでしょうね。弟夫婦に第一子が出来たからでしょうか。きっかけはたぶんそうなんだけど、自分にはそういうものが何もないから不安に思わなくて良いということを再確認したのと、1歳年下の弟に比べて自分は結婚や子育てのような人生の重大な決断を何もしていないことが悔しくなってヤケになったというのは、死を意識したときとは明らかに違うことだけど。

次の日の晩に、親を誘って食事に出ました。弟夫婦の件で、親はさぞ喜んでいることでしょう。一方で、目の前に座っている長男はゲイで、HIVに感染していて、今ここで人生が終わっても何の後悔もないと思っている。そんなこと親が知ったら悲しむよ。悲しむどころじゃなくて取り乱すかもよ。いや、言わなきゃ弟と同じことを期待され続けて苦しいだけだよな。じゃあ言ってみる?“生きるのに精一杯”だと知ったらただ生きているだけでも感謝されるかもよ?

そんなことを自問自答しながらも、親と卒なく会話するし、目の前の料理を美味しくいただく自分もいるのです。これで良いんだと思いました。僕が生きる目標は美味しいものを食べること。大切なものを守る覚悟はあるのか、とか、意味ある人生を歩んでいるかとか、そんなこと考えたって分からないし。よる10時になれば薬を飲んでとりあえず生き永らえようとするし、あさが来れば仕事しに出かけるし、仕事すればちょっとは意味のあることをしたいと思うし、お給料が出たら美味しいものを食べる。そして、気が向いらたこうやってぷれいす東京の日記を更新する。何の後悔もない人生。良いじゃん、それで。

鳥前 進

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