陽性者と家族の日記

「うまくなる」という悩み

先日、あるラジオ番組でこんな話を耳にしました。

 戦争の悲惨さを後世に伝えるため、その当時に子供だった人たち
(現在の70代、80代の方々)の中には、講演会などで空襲や被爆の話を
若い世代に語り継いでいる方々がたくさんおられます。
 そうした方々が共通して悩みのひとつとしてあげているのが
「話し上手になる」という危険なのだそうです。

 貧困の中で生き延びた苦しい体験、疎開先での辛いイジメ、
空襲で家族や友だちを失った深い悲しみ…。
戦争体験のない僕たちは、こうした話の数々に心を動かされます。
 しかし…当の語り部の人たちは、同じような話を数十年にわたって何百回、
何千回も繰り返しているわけですから、自然と慣れて話術が磨かれていくわけです。
 歴史的な事実を客観的に語るべきところを、あたかも芝居のセリフを
しゃべるかのごとく、感動させるツボや話の聞かせどころを身につけてしまう。
結果的に聴く側のリアリティが薄れてしまって、以前ほどは衝撃をもって
受け止めてもらえなくなってきているのではないか、と言うのです。

 確かに、同じ話を聞くなら話し方がうまい人のほうが魅力的なように思えます。
でも、演者の技術が巧すぎて肝心の話そのもののリアリティが失せてしまったら
誰もが「またか」と思い、戦争の痛みを危機感としてとらえなくなるでしょう。

 リアリティを維持するために「常に新鮮な状態でいる」という意識。
緊張感を持続させていくには、結局その努力を絶やさない、ということに
尽きるのかも知れません。

 自分の生活に照らし、肝に銘じて忘れずにいたい話だな、と感じました。

なぎさのペンギン

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