陽性者と家族の日記

母のこと

長い間闘病していた母が、先日亡くなりました。

僕は、ぷれいす東京さんの”陽性者の日記”を2007年の夏から書かせていただいています。

母のことは、2008年の9月に取り上げました。
自分のHIV感染について、母へ告げた日についての投稿ですが、
さまざまな記録の中でも、自分にとって特に印象深いできごとでした。

あの日の日記の中で、僕は”静かな告白”と表現をしていたけれども、
それはあくまで自分からの一方的な視点でしかなかった…
いま 改めてそう感じます。

本当に受け入れてもらえたのかどうかは分かりませんが、僕の知らないところで、
母はずっと苦しんできたのではないか、結果的にそのことが母の病気の原因のひとつに
なってしまったのではないか…その思いが 今も心にあります。

母が病に倒れてから心の中にずっとあったこの数年間の感情…
(孫を母の手に抱かせることができなかった)謝罪の気持ちも、もちろんあります。
でも…それと同じくらいの割合を占めたのは、ひたすらに 僕の選択に沈黙を保ったままだった
母への感謝でした

後悔しているか…と問われて、ただちにNOと答えられるかどうかは自信がないです。
僕がこの世を去るときに、きっと頭に浮かんでくるのだと思います。
でも、たとえ後悔したとしても…あの時の自分にはそうするしかなかったし、
今、タイムマシンで13年前に戻れたとしても 同じ告白をしていたに違いない、と。

僕は子供がいないので、人の成長が(頭で理解しているつもりですが)ピンとくるような
リアリティがありません。
いつまでも自分は今のまま(の若さ)だと、知らず知らずのうちに思い込んでいる。
人がどう生まれて、親がどう試行錯誤して子供を育て、大きくなるまで見守って
”一人前”になって社会ではばたけるように 温かなまなざしを注いでくれたのか。
映画や小説を通して理解したつもりになっているだけで 実体験がないのです。

残念ながら、かわいくてやんちゃな子供時代だけが成長の時間ではありません。
老人になってからも、人は成長します。
老化、というネガティブな言葉で片づけられてしまうけれど、死ぬその瞬間まで
人は成長し続け、別の世界へ旅立っていくのだと思うのです。

だから、今度は…子供が親の旅立ちを見守るべきなのだと…母の闘病の間に学びました。
この世の中に、死なない人なんて一人もいないので。

3年前にパートナーが急逝したとき、あまりに突然過ぎて 僕はお別れが言えなかった。
また数日後に会おうね、そんな気軽な会話が最後に交わしたチャンスになりました。

パートナーは、母の病気の進行を気にかけ、いたわってくれた心の優しい男でした。

彼のためにも、僕は最後まで母を見守ろうと心に決めて…その日がやって来ました。

30年前以上前に他界した父、そして母、3年前に亡くなったパートナー、
この数年で他界した何人もの友人たち…いろいろな人の顔がよみがえります。

すごく変な言い方になるかもしれないけれど…
僕は彼らに…「はじめまして」「うちの息子がお世話になりましたね」「いいえ、こちらこそ」
なんて会話をしてもらえていたらうれしい。
そんな風に想像するくらいしか、僕にはできないのが(悲しい)現実です。

それでも僕は、もうちょっとここでがんばりたいよー。
毎日をなるべく無駄にしないよう、こぼれる砂時計の針をやや気にしながら
明日からも笑顔で 前を向いて いつものように生きていこうと思います(^^)

コロナ禍のこの2年、ずっとパートナーの郷里である熊本に行けていないのが残念。
11月のはじめ、間もなく彼の命日がやって来ます。
新しい自分は もうひとつの人生をすでに歩き始めているんだよ。
母のこともあらためて報告に行くから、もうちょっと辛抱して待っていてね。

なぎさのペンギン

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