Women's Salon

【ゲストの女性陽性者より】「エイズ国際会議、そしてWomen’s Salon〜」

当日はとても冷たい大粒の雨の降る日であった。そんな中8人もの方にお集まりいただいた。みなさんにはもっとビジュアルな形で国際会議の内容を知っていただいた方が良かったかなと反省し、会議の雰囲気や熱気をお伝えしきれなかったかもしれないと後悔した。また報告会の後もみなさんとお話をすることが出来なかったことも残念に思っている。

私はカリニ性肺炎を発症しHIVに感染していることが判明した。近所のクリニックから紹介され入院していた地域病院からほぼ3週間後、拠点病院に転院した。拠点病院を1週間後に退院し、計1カ月半の療養を経て社会復帰した。拠点病院に転院した当時のCD4の数は38だった。地域病院で私を担当した内科医が免疫疾患をまったく考慮せず、下がり続ける白血球の数に首をひねっていた。そして言うにことを欠きこう言った。「僕は腎臓屋なもので」。効き目のない点滴を与えられ、熱は下がらず、咳は止まらず苦しかった。入院後約3週間にもなろうという頃同僚の医師が2人検診に来て、膠原病や免疫性疾患の可能性を探るための問診を始めた。その一人が口の中を調べ肺の音を聞いて「免疫性疾患の疑いが強い」と言った。そこで初めて動脈注射で血液を採り本格的な検査が始まった。検査に含まれていたのは間質性肺炎、白血病、HIVだった。病院は肺炎患者を診た時にHIVを想定しない不用意な態度でいいのであろうか?統計によればエイズは世界の死因の第6位だ。

HIVは人の生命を創造するセックスに関わっている。人間にとってのセックスはまた愛情表現としての深く開放的で神聖な行為だ。「淫らな人」と人が称する人だけがかかる病気ではない。歌手などが口にする「愛する人を守ろう」というメッセージは、愛する人が非感染者で、自分が感染者を想定している。非感染者に媚びている。どうりで心を打たないわけだ。カナダの統計では、自分が感染していることを知らない感染者からの方が感染を知っている感染者からよりも、高い新規感染率を示している。感染を移すことを非難する一方で、感染した場合は自業自得と非難するのが世の流れだ。ならば「自分を守ろう」に変えたらどうか。そうでもしなければ、コンドームをつけたがらない男の数は減りそうにもない。自らコンドームをつける男は大抵STDや肝炎の感染リスクを自覚し、自分の身を守ろうという発想を持っているようだ。あるいは女性が妊娠しては非常に困ると思っているのだ。相手のことを考えて自らコンドームをつけるような非感染男性は少なくとも日本にはまずいないのではないか?いるのであれば何を理由につけるのか、動機は何かぜひ教えてほしい。女性に毎回着けることを促されるような男は、身勝手さと征服欲に翻弄される子供っぽい男だ。コンドームをつけることはまた、老人には席を譲るように、女性の重たい荷物は男性が持ってあげるように、マナーの問題だ。しかし理想を目指して訴えても効果はないことは明らかだ。だから「自分を守ろう」の方が実際的ではないか。

国際会議では女性の立場を論じるセッションが多種あり勉強になった。母子感染、結婚を考えている女性向けセッション、国別に異なる出産時・出産後のガイドライン、女性の生き方など、精神的・実務的アプローチに基づいて構成されていた。どうやら世界的にHIVの持つ「不名誉なイメージ」に女性の方がより傷つけられやすいようだ。HIV患者は自己責任という言葉の圧力を受ける。感染した人間が悪いのだという圧力。自分で自分を守れなかったという後悔や嫌悪感。このような意識はより男性やゲイの人々よりも強く女性を苦しませているらしい。男も女も私たちそれぞれが幸せになる権利、必要なものを得る権利は平等になった。けれど幸せになるための役割は一緒ではないはずだ。雇用機会均等法で割り当てられるように役割が一緒だったら幸せなのだろうか? 私は男性と同じ人生を歩みたいとはこれっぽっちも思わないし、だから女性という性で生きている以上女性特有の悩みがあって当然であると思う。恋人やパートナーを探している、離婚してからHIVが分かった、結婚して子供を欲しい、子育てをしているなど、様々なステージに悩みはある。HIV女性が女性の幸せを追及するには、私たちが私たち自身の手で自ら問題を明らかにし、声を上げる必要があるのだろう。これがアメリカ国際会議で受けた一番の女性向けメッセージだった。みなさんとまたお話をする機会を楽しみにしている。<2012年11月 感想文>

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