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ネスト・プログラム第13回ピア+トーク Special「日本のHIV陽性者から見たU=Uの光と影」報告

ブルース・リッチマンさんと報告に利用することに同意してくれた人たちの集合写真

[ブルース・リッチマンさんと報告に利用することに同意してくれた人たちの集合写真]

2020年1月19日に、U=Uのキャンペーンの創始者でHIV陽性者のブルース・リッチマンさんをお招きして、第13回ピア+トークSpecial「日本のHIV陽性者から見たU=Uの光と影」を開催しました。参加者は43名(うちスピーカー4名)、トークゲスト1名、スタッフ8名、通訳者2名の合計54名という大勢参加がありました。U=Uを切り口に、ブルースさんと、4人の日本のスピーカーの交流は、とても熱く、心が動く瞬間でもありました。参加者アンケートから報告をします。


ーブルース・リッチマンさんの挨拶ー

2016年にこのキャンペーンを始めてから4年がたとうとしています。また、この2年間28か国を訪れ、数々の会議に出席したり、講演やパネルディスカッションに登壇をしてきました。
その中でも今回の訪日は一番感動することが多かったと思います。
日本でお会いした方々はどなたをとっても、オープンでやさしい方ばかりでした。

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今日のイベントでもその感動は続きました。特に4人の登壇者の方々のお話は素晴らしいものでした。4人とも、事実を丁寧に伝えてくださいました。どんなことが起こって、その時どう感じて、そのあとどのようなことがあったのか。まるでプロの語り手のように事実を伝えてくださいました。本当にありがとうございました。

また、今回訪問でぷれいす東京のU=Uキャンペーンへの貢献をこの目で見ることができたこともありがたかったです。2年ほど前から、ぷれいす東京がU=Uキャンペーンを日本でリードしていることはソーシャルメディアでフォローをしていました。このキャンペーンにかかわっている方々と直接お会いできて大変うれしく思っています。

未来に向けての希望を体感することができました。
本当にありがとうございます。

さよなら、ではなく、「今後もよろしく」ということばを最後の言葉とさせてください。これからもつながっていきましょう!

ースピーカーのコメントー

「女性陽性者の恋愛について」ようこ

私のテーマは、「女性陽性者の恋愛について」お話しさせていただきました。
過去の恋愛について、公の場で話すことはすごく勇気がいりましたが、私のスピーチを聞いてくださった方に少しでもお役に立つことができたらという思いでお話しをさせていただきました。
病気によって、辛い思いをしたと思ったこともありましたが、その時の経験があったからこそ、自分が抱えてる病気と向き合うことができ、病気と向き合おうと思ったことで、ぷれいす東京さんに出会え、たくさんの素敵な方々に出会えました。
一時は、恋愛を諦めそうになったこともありましたが、同じ陽性者の方々のお話を聞いたり、陽性者を支援してくださるたくさんの方々に触れ合うことができたことで、前に進むことができました。
今回、Bruce Richmanさんの貴重なお話も聞くことができ、また直接お話しをする機会をいただけたこと、とても嬉しく思います。
ありがとうございました。

「U=Uはみんなのためのもの」鳥前進

今回、「服薬を希望するが開始できないでいた経験」と題して、自分の経験をお話しする機会をいただきました。当日お話しした内容は、陽性者と家族の日記「服薬を希望するが開始できないでいた経験」をご覧ください。

U=Uは誰にとっても希望であり画期的なことです。一方で、日本においては、HIV感染症の治療の目標である「検出限界以下」のブランド化をもたらし、(なかなか服薬が始まらなかった私を含め)治療が始まらない人たちが取り残されてしまったと感じざるを得ません。U=Uを陽性者に限らず多くの人が知ること、いかなる陽性者も検出限界以下という目標をすぐに達成できることが望まれます。U=Uは、他の誰かのためのものではなく、すでに治療を受けている人、これから治療が始まる人、HIVに感染していない人全員のためのものだから。

「沈黙する陽性者」奥井裕斗 (当日のスピーチ原稿より)

自己紹介

  • はじめまして。奥井裕斗といいます。
  • 本日は、貴重な発表の機会をいただき、ありがとうございます。また、このように素晴らしいゲストをお迎えして、私たちの病気についてみんなで考える機会ができたことを、心から嬉しく思っています。
  • かんたんに僕のことを紹介します。僕は会社員で、東京に住んでいます。HIV感染を知ったのは2016年の夏で、今から三年半前です。
  • 現在、治療は成功していて、以前と同じように会社勤めを続けています。一方で、TwitterやブログなどのSNSを中心に、HIVを持つことをオープンにして文章を書いたりつぶやいたりしています。

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SNS空間で感じる市民や当事者の中にある偏見と差別

  • このような活動のためか、本日最初に僕がいただいたテーマは「SNS空間で感じる市民や当事者の中にある偏見と差別」というものでした。
  • このテーマについては、僕の思うところはシンプルです。
  • 日本のSNSにおいて注目を集めるHIV・AIDSの話は、いつも「悲劇」や「苦悩」がテーマでした。それは、社会をより良くしていく議論の出発点となって、実際にいろいろなことを良い方向に動かしてきましたが、同時に世の中や当事者の中にあるスティグマを再生産してしまう面もあったように思います。
  • 勇気を持って苦しみを訴えてきた当事者の方々の発信のおかげで、HIV・AIDSに対するスティグマが徐々に解消されつつあると感じています。そんないま、我が国のSNSに必要なのは、HIVを持つ人たちの次の話、新しい話なのではないかというのが僕の考えです。
  • それは、僕たちにとってはありふれていて、でも一般の人たちには見えにくい僕たちの平凡な姿や平凡な日常、平凡な人間関係の話です。いままで表に出にくかったそうした話が今後は注目されるべきだし、すでに注目されつつあるし、それこそが根深いスティグマの残滓を無くしていく新しい原動力になる…、そんなことを僕は思っています。
  • これが全てなのですが、これだと短すぎますので、本日は少しテーマを変えて、僕の考える「カミングアウト」についてお話ししたいと思います。

カミングアウトの逡巡

  • 僕がHIV陽性の告知を受けてから今までの三年間は、「カミングアウトの三年間」でした。カミングアウトのことを悩みぬき、実際にたくさんのカミングアウトをしてきた三年間でした。
  • 感染が分かった当初から、カミングアウトのことは頭の中にありました。でもそれは、とてつもなく遠い場所の、夢のようなできごとに感じられました。とてもじゃないけどそんなことできない…!と思いました。僕を支配していたのは恐怖でした。どんな反応をされるだろうか、皆に罵しられ、嫌悪され、村八分にされるんじゃないだろうかと、本気でおびえていていました。
  • また、いろいろなところで聞いた「感染しないんだから言わなくていい」という言葉もまた、僕のカミングアウトを思いとどまらせました。治療は格段に進歩して、今ではウイルス量を検出限界以下に抑えつづけることができる。そうなれば、本人の健康も回復するし、他人に感染させることもない。「だから」伝える必要なんてない。そんなロジックです。
  • 僕は、告知後の手続きや治療が比較的スムーズに進んだため、告知のショックから立ち直って気持ちが落ち着いてきたころには、既に服薬もしていて、ウイルスも血中から検出されなくなっていました。「僕はカミングアウトができないんじゃなくて、カミングアウトをする必要がないんだ」と「必要性」の文脈で考えるロジックは、僕を安心させてくれました。「HIVの話は墓場に持っていこう」そう僕は決めました。
  • しかし、そう決めたにもかかわらず、僕の苦しみは一向に和らぎませんでした。体調面でも仕事面でも困っていることは何もない、誰かにHIVをうつす心配もない。それにもかからわず、一人苦しみ続けました。何がこんなに苦しいんだ、どうすればこの苦しみから逃れられるんだと、毎日必死に考えました。
  • 最初は「社会のせいだ」と思いました。無理解で偏見に満ちた社会が僕を苦しめているんだと思いました。しかし、考えてみると、僕にはHIVを理由に誰かから拒絶された経験なんてありません。そう考えるうちに、ハッと気づきました。僕を苦しめているのは、僕自身でした。僕は、自分で自分を恥ずかしい存在だと思っていました。そして、自分で自分を誇ることができず、そのことに深く傷ついてボロボロになっていたのです。

自分は恥ずかしくないと叫ぶために

  • どうしたら自分を「恥ずかしい存在」だと思わないようになれるのか、僕には答えがありませんでした。でも、大きなヒントがひとつありました。それは、HIV感染がわかって、二週間の検査入院をしたときの経験でした。
  • 病院では、スタッフさんはみな僕がHIVを持っていることを知っているわけですが、どのスタッフさんも他の患者さんと区別なく、ただの入院患者のひとりとして僕に接してくれました。今でこそ当たり前に思えることですが、当時の僕には「普通の人」として扱われたことは本当に衝撃で、そのとき初めて「僕はHIVを持った僕のままここにいていいんだ」と思えたのです。
  • この経験を思い出し、僕は「あのときの気持ちを積み重ねることこそが、苦しみから脱する道だ」と確信するようになりました。何度も何度も迷った末、僕は慎重にカミングアウトを始めていきました。
  • 最初は、数人に知ってもらえれば十分だと思いました。しかし、一人また一人と伝えていくうち、気付いたことがありました。それは僕が「他人にとっての自分」を通じてしか「自分にとっての自分」を書き換えることができないということでした。そして、人に伝え、その人が反応してくれることで、自分の中の恥の感覚が大きく和らいでいくのを感じました。
  • 結果的に、僕は三年間をかけて、本当に少しずつゆっくりと、それでも本当にたくさんの人たちにカミングアウトをすることになりました。いまの僕は、僕がHIVを持っていると知っている人たちに囲まれて生活しています。「僕は恥ずかしくなんかない」と今では思えるようになりました。
  • 僕にとって「伝える」と言うことは、伝えた事実を日常生活に組み込む手続きでもある一方で、日常生活から切り離す作業でもあるんだなと感じています。気にしたいときは気兼ねなく気にすることができて、忘れたいときは気兼ねなく忘れていられる。伝えきることで、HIVを持つ僕の暮らしはやっと「普通の暮らし」になりました。
  • 最近では、カミングアウトをするとき「U=U」を意識的に伝えるようにしています。それは、「治療すれば全く感染しない」という事実を知って驚いてもらうことを通じて、その人の中に思い込みが存在する可能性に自覚的になってもらい、僕を「ただの僕」として、病気を「ただの病気」として見てもらいやすくするためです。この戦略は、僕のカミングアウトで強い効果を出しています。
  • U=Uは、最初は僕にとって「カミングアウトをしない理由」でした。でも、今では自分のことを正しく知ってもらうための大切なツールになっています。このことを思うと、僕も三年間でずいぶん変わったなと感じます。

カミングアウトは誰かの勇気を受け止める土壌になる

  • このように、僕はその時の自分のため、自分が苦しみから解放されるためにカミングアウトをしてきたわけですが、最近になってカミングアウトという行動が、「いまの自分」や「相手との関係」だけでなく、より広い広がりで意味を持つことがあることを感じるようになりました。
  • これまで、カミングアウトのとき何度となく聞いた言葉があります。それは「自分の知っている人にもHIVを持っている人がいるんだ」という言葉です。それは、その「知っている人」がこの人にカミングアウトをしたことがある、ということです。僕の知らない誰かのカミングアウトが、時間や関係を越えて、いまの僕のカミングアウトを受け止める足場になってくれているわけです。
  • 僕は、HIVのカミングアウトをして相手から否定的な反応を受けたことは今までないのですが、そうした「スティグマのない場」は、最初からそこにあったものでもなければ、運良くそこにあるわけでもない。僕の知らない誰かの勇気と思いの結果として、あるべくしていまここに存在しているのです。
  • だとしたら、それは僕のカミングアウトもまた、「いまの僕」だけに意味を持つものではないということです。これからも僕は、HIVを持っていることを誰かに伝えていくと思います。それは自分を書き換え、誰かとの関係性をアップデートすることでもありますが、同時に、僕の知らない誰かの勇気をいつかどこかで受け止める土壌にもなると、今では思っています。

やさしさのアップデート

  • ここまで僕のカミングアウトについてお話してきましたが、僕の周りの心優しい医療従事者や支援者、陽性者の先輩たちは、いまでも「HIVのことは言わなくてもいいんだよ」と口癖のように言います。社会を見ると、お医者さんは「死なない病気になりました」「今は普通の暮らしができます」と胸を張り、世の中に向けて認識のアップデートを呼びかけます。
  • でも、僕にとって「言わなくてもいいんだよ」という優しい言葉を守って過ごす日々は、全然「普通の暮らし」じゃありませんでした。そして、たくさんの陽性者と知り合う中で、それが僕だけの話ではないこと、多くの人が沈黙の中でもがき苦しんでいることを知りました。自分を誇れない苦しみと社会から拒絶される恐怖の板挟みの中で、命を断った人だっている。全然「死なない病気」じゃないんです。そうやって沈黙に僕らをとどまらせる「優しさ」こそ、アップデートされるべきなのではないでしょうか。
  • ハーヴェイ・ミルク(Harvey Bernard Milk)という人をご存知でしょうか。米国でゲイ男性として初めてセクシュアリティを明らかにして公職に就いた人ですが、この人の有名なスピーチに次のような一節があります。「バスの後ろに乗って満足するな(NOT be content to sit in the back of the bus)」
  • かつて人種による差別が社会制度に強く残っていた米国で、白人以外の人たちはバスに乗るとき Colored Section という決められた座席に座らなければなりませんでした。それは、たいていバスの後ろの方にありました。ミルクは、そこに座ることで満足してはいけないと指摘したのです。
  • 僕たち陽性者は、沈黙を守ることでバスに乗ることができています。それは、多くの方たちの真摯な努力の結果です。でも、そこで満足してしまっていいのでしょうか。僕たちは、何かをあきらめることに慣れてしまってはいないでしょうか。
  • 死なない病気になりました。普通の暮らしができます。心からそう言える日が来ることを、僕は信じています。
  • ありがとうございます。

終わり

参加者のコメント・感想など

プログラム参加の動機

「孤独な葛藤」山本

はじめに、私はCD4が障害者手帳取得基準より高いまま7年が過ぎています。ウイルス量も1000前後な為投薬開始時期は全く未定です。
そんな中、U=Uという衝撃的な概念がぷれいす東京を通じて入ってきました。皆さんはどう感じたでしょうか。私はとても複雑な気持ちです。安心、解放を感じる方がいる一方で、私は取り残された気持ちでいっぱいでした。自分だけ蚊帳の外、を感じざるを得なかったのです。
今回この会に参加して、気づいたことがあります。U=Uに少しの安堵を感じる方の中にも様々な人生を背負ってきた方々がいて、この点だけに固執してはいけないのかもしれないということ。蚊帳の外、の気持ち以上に辛い出来事を乗り越えてきた仲間がいる、ということです。
Bruceさんやパネリストのお話に結果として、辛いのは自分だけではないという新たな着眼点を学ばせてもらえたのです。
参加して良かった。
これに尽きます。いろいろな話を聞くことで新たな着眼点を得る学びにもなる、そんな会でした。ありがとうございました。

ネスト・プログラム「第13回ピア+トーク感想文」より)

「風は吹いている」IHO

昨日、「ピア+トークspecial/日本のHIV陽性者から見たU=Uの光と影」に行ってきました。
いやぁ、Bruce Richmanさんが素敵でしたねぇ(*^^*)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(コホン)
とても興味深くて学びの多い時間でした。

「U=U」を聞いたのは2年位以前?認識したのは昨夏位?でしょうか。
世界中で起きている「U=Uキャンペーン」を知り、なんでもっとこの情報が
拡がらないのか少しもどかしい思いをしました。※僕のアンテナの感度が悪いだけ?
Bruceさんも「U=U」を知ってから生き方が変わったと仰っていましたけど
本当にそれ程インパクトがある内容でした。
また、4名のスピーカーの方々のエピソードは
時折hard/heavyな内容でしたが、HIVと共に生きてきて、生きていくと云う
勇気を頂けたお話しで心がかなり揺らされ、
この時、取っていたメモは用紙いっぱいになりました。
制度や人間関係、差別に偏見と色々悩んでいる僕ですが、
完全クローゼットで生きている僕ですが、何か行動を起こしたいと思う程に
感情を刺激された3時間弱の素晴らしい時間でした。
でも最後に、「U=U」を陽性者以外の人達に拡げ理解して頂く事が重要と言われた方に
「そうだなぁ」と俺まだ傍観者だなと実感しちゃいました(._.)
医療従事者・医師・政治家etc・・・とてつもなく大きな行動になりそうだけど
たったひとつレンガを積むことから始めるように、SNSだったりセミナーを受けたり、友人と話したり
出来ることからはじめよう!

風は吹き始めている。

IHO 拝(「陽性者と家族の日記」より)

「光と影に触れて」まゆみ(感染告知年:2016/服薬歴:4年/年代:30代)

私が初めてU=Uを知ったのは2年ほど前だったかと思います。その頃には服薬を始めて2年近く経ち、検出限界値以下を維持していました。検出限界値以下でも人にうつしてしまう可能性はあるのでは、と悩んでいたのでとても安心したのと、希望が持てるなと思ったことを覚えています。
今回のタイトル「日本のHIV陽性者から見たU=Uの光と影」を読んで、影とは?と気になっていました。当日、CD4が下がらず希望していてもなかなか服薬を始められないというお話しを聞き、納得したのと同時に私は運が良かったのだと思いました。私がU=Uを知ったとき、もっと早く知れていたらと思いましたが、それは自分がすぐに服薬を始められて検出限界値以下を保てているからだと気付きました。
U=Uは素晴らしいキャンペーンだと思うし、もっと広く周知されたらいいなと思います。それと同時に、服薬を始めるまでのハードルが少しでも下がり、U=Uが全ての陽性者にとっての希望になる日がはやく来ればいいなと願ってやみません。

ネスト・プログラム「第13回ピア+トーク感想文」より)

「現在の医療制度とその制約について」マサクロ(告知年月:2007年頃/服薬年:11年/初参加/40代)

現在の医療制度とその格差について考えさせられる内容でした。
私は感染が発覚し、2年近くCD4が160程度に下がるまで、毎月採血し、CD4が160を切ってから障がい者手帳を申請し、その後現在まで服薬を行っており、投薬後1年経過からU=U(検出値以下)をキープしています。
今までわたしの知識として、CD4が下がるまで待ち、その後投薬を行うのが一般的なのだと思っていましたが、現在では「感染が判明し、速やかに投薬治療が望ましい」ではあるけれども、「CD4が500を切らなければ投薬できない」という点の矛盾を知りました。(私の認識間違いであれば、ここの部分は削除願います。)
わたしのように昔から患い、既に心も身体も落ち着きを得ている方はよいものの、感染したばかりの方の投薬もできず、されとてCD4が落ちないと治療すらままならない、というう苦痛は計り知れないのだ。と強く感じました。
今後も、ピア+トークに参加し、また、機会があれば私の経緯等を含め、発表者となり、今を悩む方への道程となれれば、と感じた会でした。

ネスト・プログラム「第13回ピア+トーク感想文」より)

はっきりと、U=Uは効果があること、HIVの感染は、ゼロだということ、100%セーフだということが、はっきりと、証言してもらって、ほんとにほっとしました。告知のタイミングは、人によると思いますがセックス前がいいという話が多くて、少し、居ごこちわるかったです。100%セーフなら、もう一生いわなくてもいいという人もいましたし、結婚が具体化するときに、私はいいたいです。つまり、セックスは、日常普通にした後です。

U=Uは大変画期的に捉えられているというのに、影の部分があるということに驚きを隠せなかった。
(1) CD4とウイルス量に対する治療開始のタイミングで変わった点、
(2) 情報が多くなって悩んでしまう人がいる、
(3) 正しい情報をきちんと伝えないと不安になる人が現れる、
(4) カミングアウトのタイミングを考えるようになる
・・・といった各々の状況を知ることができた。

今まで参加してきたネスト・プログラムの中で異性愛者の話を聞いたことがなかったので、違った異なる観点で考え、知ることが良かった。

人の言葉で「リスク0」と聞くとあらためてとても希望を持てました。これからカミングアウトしていく時は今までよりもっと自信を持って話せると思います。また、今回のタイトル通り、U=Uの状態になれていない方の話を聞くと、U=Uの、というか日本におけるHIV治療の光と影について考えさせられるなと思いました。

U=Uの対スティグマの運動の文脈が強く感じられてよかった。

U=Uの提唱者のブルースさん本人から、分かりやすくその説明をしてもらえ、直接聞けて、本当によかったです。こんなインパクトのある言葉を発する方だから、もっときびしい?方かなと思っていたのですが、その内容はやさしさにも満ちていました。

差別や偏見を恐れて生きてきた当事者の方の心情が、ありありと伝わってきました。またU=U(検出限界以下なら感染しない)のメッセージに支えられていることもわかりました。HIV+ということがわかり、ただでさえ心理的にしんどい状態であるのに、誤った認識や古い情報にとらわれた人の冷たい言葉が悲しかったです。

第13回ピア+トーク Special「日本のHIV陽性者から見たU=Uの光と影」概要

【日時】1月19日(日)17:00〜20:00
【対象】HIV陽性者、パートナー、家族
※日本語通訳付き

第1部 なぜ、U=Uは始まったのか。
ブルース・リッチマン(Prevention Access Campaign)
U=Uのキャンペーンの創始者でHIV陽性者

第2部 日本のHIV陽性者からの声

  1. 女性の陽性者の恋愛、妊娠の希望 ミラン
  2. 服薬を希望するが開始できないでいた経験 鳥前 進(とりまえ すすむ)
  3. 女性の恋愛、妊娠と結婚について ようこ
  4. SNS空間で感じる、市民や当事者の中にある偏見と差別 奥井 裕斗(おくい ひろと)

第3部 自由な意見交換

司会:生島 嗣、大北 全俊(東北大学大学院)

このプログラムはネスト・プログラム「ピア+トーク Special 」として、ぷれいす東京主催、厚労科研「HIV感染症及び合併症の課題を克服する研究班」及びU=U Japan Projectとの共催で開催しました。

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