ぷれいすコラム

ぷれいす東京設立20周年記念巻頭シリーズ 第2弾「ぷれいす東京20周年に寄せて」

砂川 秀樹 レインボーアライアンス沖縄代表

つい先日のこと、私は「実際にこれをやることになったら大変だ…」と思いながら、ある助成金に申請するプロジェクトの企画書を書いていた。それは、やることになれば、私が沖縄で初めて本格的におこなう HIV関連の活動で、難しい側面を持つものだった。「きついなぁ…出すのやめようかなぁ」と思いながらも、PC上で文字を打ち込む手は止まらず、結局完成させて提出した。「よく書いたねぇ」と言う活動仲間の声に「憑依ひょういって感じだったよ!」と答える私。もちろん、それは冗談だったのだが、その言葉を聞いたある人は、真面目にこう言った。「いろんな人の思いや悲しみ、期待を背負ってますものね」。

私は、三年前に、21年間住んだ東京を離れ故郷の沖縄に戻った。私の東京生活は常にHIV/AIDSに関する活動とともにあった。ぷれいす東京にも設立時から参加し、設立間もない頃から事務局長を務め、東京を離れるまでかかわっていた。だが、沖縄に戻って来てからは、ほとんど HIVの問題に関わってこなかった。レインボーアライアンス沖縄という団体で LGBTに関係する活動を展開しながらも、いくつかの理由から迷うところがありためらっていたのだ。

しかし、それでも、私には HIVに関する相談や経験談がいくつも届いた。中には、私がその問題に関わっていたと知らずとも話してくれた人もいた。

そのうちの一人は、ほんの数年前にパートナーをHIVで亡くした人だった。遠距離づきあいだった相手がふらりとやってきて一緒に住み始めたが、「喘息で体調を崩している」と言い続けた彼は、どんどん体調が悪くなった。そして、病院に行く事を勧めても拒否し、自宅で亡くなってしまった。亡くなった後に、HIV感染による肺炎だったことがわかった。それを話してくれた人は、「本人は知っていたのではないか」と言う。「自分がもっとHIVのことをわかっていたら、もっと何かできたのではないか」と悔やみ続けているという。

友人の「いろんな人の思いや悲しみ」という言葉を聞いたとき、彼の語ってくれたその話や、 1990年にHIVの活動に参加し始めた頃のこと、HIVと闘いながら亡くなっていった友人、知人たちの姿が思い出された。そして、自分は、やはり沖縄でも、HIVの活動にもっと積極的に参加していくべきなのかもしれないと思った。

そう思い、「どんな活動をどんな風に?」と考えるとき、自分のHIVに関する活動や研究の経験、そして出会いの大部分がぷれいす東京を通して得られたことが自分の土台を形成していることを実感する。

前代表の池上千寿子さんの下で活動する中で、行政との協働の大切さや、団体を率いる者の覚悟を学んだ。現代表の生島嗣さんからは、相談や支援で寄り沿いつつも巻き込まずに踏みとどまる姿勢を教わった。長らく相談業務を担当している牧原信也さんからは、明るく飄々とした表情が人をどんなにほっとさせるかを学び、電話相談の佐藤郁夫さんからはつながり支える気持ちがいかに人を助けるかを教えてもらった。もちろん、たくさんの関係者の皆さんから多くのことを教えてもらった。ぷれいす東京で得られた知識と経験は、私にとって貴重な財産であり、その存在は、東京から遠く離れ、時に心細くなる私を下支えしてくれている故郷のようである。だから、心をこめて、この言葉を。

20周年おめでとうございます。そして、活動を続けてくれてありがとう。

ぷれいす東京Newsletter No.82(2014年8月号)より

砂川 秀樹 レインボーアライアンス沖縄代表

レインボーアライアンス沖縄

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