ぷれいすコラム

ぷれいす東京設立20周年記念シンポジウム「HIV/エイズとともに歩んだ20年と、これからのこと。」

池上 千寿子 樽井 正義 根岸 昌功 宮田 一雄

シンポジストとしてぷれいす東京の理事 4名を迎え、2014年4月29日に新宿区箪笥地域センターにて 20周年記念シンポジウムが開催され、会場は94名の参加者で満員となりました。(このシンポジウムは「TOKYO RAINBOW WEEK 2014」参加イベントです。)

国際エイズ会議が日本で初めて横浜で開催された 1994年、ボランティアの有志により「ぷれいす東京」が設立されました。

以来 20年間、年間約 4,000件の HIV陽性者とそのパートナー・家族からの相談、年間参加者 1,000名を超える HIV陽性者等向けプログラムの実施、 2,400件の感染不に関する電話相談など、地域に根ざした活動を続けています。

また、1997年からは10年に渡り、ゲイ・バイセクシュアル男性向け啓発イベント Voiceを開催し、その後も、 “Living Together”という HIV陽性者や周囲の人による参加型キャンペーンを呼びかけるなどしてきました。

ぷれいす東京がこれまで歩んできた道のりを、設立当時をよく知る人のトークで振り返り、これからの道すじを探りました。

出演:
池上千寿子(ぷれいす東京)
樽井正義(慶應義塾大学名誉教授)
根岸昌功(前都立駒込病院感染症科部長/ねぎし内科診療所院長)
宮田一雄(産経新聞編集委員)

司会:生島嗣、大槻知子

池上千寿子

●横浜会議とぷれいす東京設立
1993年にベルリンで行われた国際エイズ会議の閉会式で、翌年に横浜で国際エイズ会議が開かれることが発表されました。横浜会議の説明会場ではセックスワーカーやドラッグユーザーのユニオンの人たちのシュプレヒコールが聞こえきて、横浜をボイコットしようという話もありました。私は会議主催者として、いつもと逆の立場にいるわけで微妙な感じになりました。でも、横浜会議はみんなの会議なんだから、みんなでつくろうという話をして、ボイコットの話は幸いにもなくなりました。

私の横浜会議での役割はリエゾン、つながるという意味です。国内ではすでに 3年くらい活動をしている NGOの人たちを中心として委員会を作って、世界から来る NGOやHIV陽性の活動家たちをちゃんと受け入れよう、宿泊拒否や入国拒否などが起きないようにと準備をしました。エイズの会議と言うのはみんなでつくるもので、いわゆる医療専門家だけのものじゃないんだという共通認識が国際的にはすでに生まれていて、それに向かって日本の私たちは何ができるかを考え、ありがたいことに何とかできたと思います。今日はそのとき共に獅子奮迅の働きをしたメンバーも来てくれてうれしいです。

横浜会議の数か月前にぷれいす東京を作ることになりました。いろんな意見があっていいけど、せっかくアジアで初めての会議をするんだから、自分たちの理念で活動していて、みんなとつながっているグループがいるということを発信したい。ケアを組織として実践し、なおかつアジアに開かれている組織が必要だと。それで、横浜会議でデビューしなきゃということになったわけです。会議は 8月で、 4月にぷれいすを起ち上げました。幸いにして生島さんをはじめとして 20人近い仲間がいて、 3年持てばいいなと思っていたのが 20年。今日は感慨無量です。

横浜会議で学んだのは、民間、行政、当事者、専門家いろいろな人が一丸とならないとできないということ。やる気になればできるが、やる気にするまでに大変エネルギーがかかる。準備と時間と努力がいる。ただ気持ちがあればいいんじゃない、同じ方向むかなくちゃいけないということです。

国際会議というのはイベントですから、これが終わったらそのままということになりかねない。ところが、幸いなことに横浜のすぐ後にパリエイズサミットがありました。横浜の成功で、日本でも NGOやHIV陽性者とパートナーシップを組んでやったほうがいいということを行政も理解した。それでパリエイズサミットに NGOとHIV陽性者の代表が政府代表団として参加したんです。ここで、エイズ対策にはHIV陽性者の積極的で意味ある参加が不可欠だという宣言( GIPA)が出されました。国際的な理念として発信され、私たちの筋道がついたというか、理念が確認されたという感じです。

池上千寿子氏さて、立ち上がるにあたって大事なのは、名前です。名は体を表すといいますから。海外の人にも一目瞭然でわかりやすく、なおかつHIVは名前に入れないということにしました。なぜかと言うと、その当時、タイトルにHIVがあると東京では事務所を借りられなかったからです。その結果、みんなで知恵をしぼって考えたのが、 Positive Living And Community Empowerment、その頭文字をとって PLACE、でもカタカナはやめよう、ひらがなにしようということで、「ぷれいす東京」になりました。

●この20年で変わったこと、変わらないこと
変わったことは、 NGOがとりあえず認知されたかなということ。それまでは“ボランティア団体 ”と言われて、確かにボランティアなんですが、時間があって暇な人が勝手にやっている、そういう目で見られました。とにかく責任あることを継続してやれませんよねと。

1995年に阪神淡路大震災があって、あの時に駆け付けた大勢の人たちのこともあって、行政やプロに任せておくだけじゃ世の中は変わらないということを、幅広く見せてくれるようになった。私たちも 2000年に法人格を持つようになり、研究主体になれるようになったりしました。いろんな法人が出てくると、そこでまた淘汰されていったりもします。そして、今度は 3.11です。社会を動かしていく、作っていく、変えていくのにどんな力が必要なのかといった認識はかなり変わった。それは良かった。 20年やってきて、方向はこれでいいんだと感じています。

変わってないことは、 HIVの薬はできて HIVとともに生きていく時間が長くなっていくというときに、この社会の中でほんとうに生きていく場、環境がどれくらいこの 20年で整備されたのかと言いますと、残念ながら大いなる疑問符がつきます。時間が延びた分だけ新たな問題がどんどん浮かびあがってくる。高齢化もそう、介護の問題もある。薬でウイルスを抑えればいいだけじゃないじゃないですか。新たなる課題が多様化して複雑になっているのを痛感します。 HIVの社会的側面があぶりだされているのだと感じます。そういう意味で「AIDS is Not Over」ですよね。

幸いなことに、仲間がいて、今いっしょに並んでいるみなさんもそうですけど、仲間と手を携えて協働することが出来るということは 20年前にわかりました。だから、あきらめることはない。できる。

ぷれいす東京の名前に HIVというのを入れなかったのが、今になって良かったと思ってます。今私たちが抱えている課題というのは、 HIVがあろうがなかろうが、今この社会で生きている私たち全員に関係しているからです。そのことを伝えやすい。 HIVだからでしょ、特別でしょっていう受け取られも大変多かったです。だけど、そうじゃない。社会で生きているひとりひとりの課題が、 HIVを通して端的に見えますよ、これを共有していきましょう。そして、変えていきたい。これがこれから発信していくべき大いなる課題だと思います。

根岸昌功

●1994年前後のHIV/エイズの医療
当時、すでにHIVの増殖メカニズムの研究、免疫のメカニズムの解明が盛んに行われていました。抗HIV薬の開発が行われ、逆転写酵素阻害剤の AZT、ddC、3TCなどが使えるようになりました。これらが使えるようになったのは大変ありがたいことで、画期的なことだと考えていました。プロテアーゼ阻害剤も研究されていて、その後インディナビルが試験的に使われるようになっていきます。

AZTを単剤で使うようになりましたが、どれくらいの量が必要なのかわからない。アメリカでの何ミリという情報に基づいてやりましたが、ほとんどの方が飲みきれずに脱落しました。単剤のあとは、交代療法。 AZTを飲んで、次に 3TCを飲んで、 AZTに戻ってという。その後に耐性というのが問題になりましたが、当時はとにかく薬を使って何とかするというのが先決でした。免疫を再構築していこうということで、αインターフェロンなどを使って壊れた免疫機能を元に戻そうということをしたのもこのころです。そして併用療法。いくつかの薬を組み合わせたやり方です。国際会議で Dr.ホーが報告をし、これまた画期的だと言われて始まり、やがてHAARTと呼ばれるようになりました。

臨床の現場では日和見感染症の予防が行われるようになります。しかし、予防治療は保険の対象になりません。今でもそうですが、カリニ肺炎の予防をしなければならない場合に、「カリニ肺炎予防」という診断名がないんです。カリニ肺炎になりましたということでないと保険適用を受けられない。保険対象の外にある予防という概念がこのときに初めて出てきました。

1992年に駒込病院の中で自殺をされた方がおられます。臨床にとって大変な敗北で、我々医療従事者はどうやって受け止めたらいいかわからなくて大混乱しました。そのときに、アメリカの「エイズ・ヘルス・プロジェクト」が日本語に翻訳されました。 HIVの臨床で心理的な支援が非常に重要だということで、私たちはこれに大きく影響を受けます。ただ、今も「心理的支援は医療に非ず」という位置付けは変わっていません。精神科で行われる以外はすべて保険の適応外ですし、カウンセラーという公式の職域はありません。

根岸氏臨床では、医療技術の提供のほかに重要なのが、場を確保するということです。当時は血友病の治療からHIVの治療へという流れがあり、私たちは感染症の対策と治療という流れになります。茨城や甲府などでの騒動が起きたりして、医療も過剰反応し、社会に不安が広がっていました。高知の事件でも「自分の病院にはエイズの人はいません」という掲示をしたりしていました。何とかしようということで拠点病院の構想が出てくるわけですが、その前の段階として非公開の拠点病院というシステムができます。公開されていないが、医療機関で HIVだとわかると、どこの病院で診療ができるかを教えてもらえるという仕組みです。保険制度のほうでも、診察料としてウイルス疾患指導料で月に 3,300円、その後には専門のコーディネーターがいるとプラス 2,200円というのが設けられ、ひとつひとつ医療機関の格付けが行われたわけです。

福祉制度については、血友病の方たちが、訴訟の和解条件で恒久対策として福祉制度を作るという大きな流れをつくってくれました。このとき、障害についてどういう風に考えるかが大きな論点でした。 WHOで 1960年代から議論されている課題で、国際障害分類というのが根拠となっていますが、それが厚生省の中で議論となって、ようやく認められて障害手帳につながりました。しかし、実際は今でもこういった概念がうまく消化されていないという状況があります。

●個々にあわせた医療の提供―その難しさ―
困っている人に、その原因を見つけて、どうしたら良い方向に行けるのかというのが医療で、それを裏付ける学問が医学です。そして、個々にあわせて技術を提供する場が必要だし、そういったアプローチができるようになってないといけない。これが私の持論です。最初に感染症科というところに勤めて、病気の社会性というところからどういうやり方をしたら良いかを考える姿勢はずっと変わっていません。

お薬があっても、その薬にかならずしもアクセスができない人がいます。経済的なことだったり、その病気に対する周囲の扱い方だったりということがあります。ところが、ひとつずつ異なる個別の例に対して事情を理解し工夫するという時間的な余裕、経済的余裕がないことが多い。ひとりの人が病気を持つと、身体的なアプローチが必要ですし、同時に心理的なアプローチが必要でも、そういったことが枠組みにない。他の医療の専門家と協力してやっていこうとか、盛んに医療連携ということも言われていますが、実際にそれができるのか、未だもって言葉だけしか出てこない。こういったことは 20年経っても変わらないところです。

こうした中で、年齢が高くなってきたときに、この病気といっしょにどうやって暮らしていくのか、まわりの人がどう考え支えていくのか、その人が持っている可能性といったものをどう開発していくかということを考えています。今、医療や福祉、ケアを受けるための制度そのものが危機に瀕していると思います。

それから、ぷれいす東京が 20年前に事務所を探すのが大変だったという話ですが、 7年前に今の診療所を開くときのことです。女房といっしょに休みのたびに2年半くらい探しましたが、大手のところはすべて断られました。エイズの診療やりますと言ったら、そんなところに貸す人がいるんですか?という反応でした。そういう意味でも変わってないです。

おおきな進歩は、情報発信している人が増えたことです。 Living Togetherで話される小さな個々の体験もそうですが、そこに光があると思っています。

樽井正義

●20年を振り返る―世界の動きをふまえて―
1990年代は、世界の状況は空白の10年と言われています。途上国での対応が不十分だったという批判と反省に立ってそう言われているわけです。また、先進国でもあからさまに差別があり、その代表的なのが入国規制です。アメリカは 1992年に HIV陽性者の入国を禁ずるという法的措置をとりました。そのためにボストンの国際会議がアムステルダムに変更になったりしました。こういった規制は 1989年のエイズ予防法により日本にもありましたから横浜でも大変だったわけです。 HIV陽性者に対する差別的なシステムというのがきわめて強力に世界的にあったわけです。

1996年のバンクーバー国際エイズ会議は、途上国のエイズにとっても非常に重要なポイントとなりました。 HAARTです。実はその 2年前の横浜でも発表があり、でも、それほんとに効くんかいな?という感じだったのが、バンクーバーでは決定的な治療だということが確認され、宣伝されました。先進国にとっては大変よろこばしいことだったんですが、これが報告されたとたん、南北問題が浮上しました。豊かな先進国では薬が使えるけれども、貧しい途上国では使えないということです。この会議のスローガンは「One World One Hope」だったんです。治療が全くない時代にまさに運命共同体だったんですね。ところが、参加者が「 Third World No Hope」と言いだしたんです。先進国に希望はあるけれども、途上国には絶望しかない。ここでエイズは完全に南北問題になっていきました。

例えばアメリカでは死因のトップだったのがHAARTによる決定的な効果でドーンと大きく下がった。それを見て途上国も欲しくなるわけです。しかし、途上国にも薬をよこせという声が、ようやく形になって発信されたのがバンクーバーの4年後、南アフリカのダーバンの国際会議です。ここでの呼びかけに対して国際社会がついに反応しました。そして開催されたのが UNGASS、2001年の国連エイズ特別総会で、ここでの「コミットメント宣言」が世界をリードするようになります。 2002年にはグローバルファンドができ、そして 3by5。これは 2005年末までに 300万人に治療を提供しようということです。その頃せいぜい 20万人だったのが、今は 1,000万人を越えています。この 10年の間にどれだけの変化があったかを知ることができます。

UNGASSの後に途上国に使われるエイズ対策費が急激に増えていきます。空白の 90年代に、アフリカに対して何にもやってこなかった、アジアに対してもそうです。それがようやく UNGASSを機に変わっていったということです。そんな中で、 2005年に神戸で ICAAPが開かれました。この会議も、コミュニティにとっては大きな意味がありました。JaNP+が立ち上がり、APN+とつながりました。

世界的に見ると、 1990年代の終わりからサブサハラを中心にようやく新規感染が減ってくる。そして 2000年を過ぎてから治療が途上国に広まり、エイズで亡くなる方の数が 2005年からようやく減ってきます。このように 2000年代にはエイズはグローバルな緊急課題になり、そして誰にも治療と予防が提供されるよう、それが世界の潮流になってきたわけです。ただ、持続的な対策をどうするかという、今我々がいる 2010年代、正念場に立たされています。

樽井正義氏エイズが世界の政治のヒノキ舞台にあがっていくのを後押しした 1つが、国連のミレニアム開発目標です。 21世紀の初めに、とにかく貧困をなくそうということで8つの柱を建てました。貧困対策の 8つのうちの 3つが保健で、そのうちの 1つが HIVなど感染症です。しかし、これが有効なのは 2015年まで。来年新しい目標に切り替えることになります。今出ている案だと 8つが 19になって、そのうち保健が 1つだけになり、その一つの中にやっと HIVがある。つまり、 HIVの重さが 24分の 1から、 300分の 1に小さくなるということです。国際政治の中でのエイズの重みがすごく下げられようとしています。この世界の動きと日本の動きはけっして無関係じゃないんです。この辺りのことをよく考えていかなければならないと思います。

●世界で何が大きく変わったか
大きな変化はやはり治療ができるようになったことです。横浜会議で NGOが最初に行ったイベントは灯篭流しでした。亡くなるということしか考えられなかったんです。それが2年後に治療ができるようなり、日本でも世界でも状況を変えました。ただ、治療をつくるのは医学の話ですけれども、それを使えるようにするというのは社会が関与する部分です。社会は何なのかというと私たちひとりひとりです。コミュニティのこの問題に関わる NGOやその他の人たちの関与、これは 20年前にくらべたら、くらべものにならないです。コミュニティの活動の豊かさ。この 20年間の活動の広がり、これはもう素晴らしいものです。これがあって治療が広がっていったわけです。医学が進歩しただけじゃだめなんです。わずか 20万人が 1,000万人を超えるところまで来た、これはこの問題に関心を持ったひとりひとりの力なわけです。それが結集したものです。

バンクーバーで象徴的なことがありました。アメリカとカナダのアクティビストがたくさん集まっていましたが、彼らが主張していたのは、「薬をよこせ」ということだった。

貧乏人でもエイズの薬を買えるようにしろと。特にアメリカは保険制度が貧弱なもんですから。アクトアップのエリック・ソーヤーが開会式の前日に息巻いてました。「明日はあばれるぞ」って、って。「何としても薬もぎとるぞ」その男に4年後のダーバンでも会いました。すでにアメリカでは薬を飲めるようになっていましたが、途上国に薬を持って来ないとどうしようもないって言って、その先頭に立っているんです。そういう人たちの動きがあったんです。何も国際会議で先頭に立つばかりじゃなく、コミュニティの様々な人がいて、様々な活動があって、その集大成として 10年間に 1,000万人に治療が届くようになってったわけです。治療が変わりました、コミュニティの活動が変わりました。それをやっていったのは、私たちのひとりひとりですから、これからも私たちひとりひとりがやっていくしかない。ぷれいすの 20年周年にあたり、あらためてそう思います。

宮田一雄

●1990年代の東京とニューヨーク
横浜会議の 2年前。日本の組織委員会には、純粋に医学的な会議にするんだという肩に力の入った意識があって、そのあまりにも見当外れな決意を伝え聞いた海外の国際エイズ会議関係者がびっくりしちゃった。 WHOの世界エイズ計画のマイケル・マーソン部長と国際エイズ学会(IAS)のピーター・ピオット理事長が、組織委員会の山形操六事務局長(エイズ予防財団専務理事)に言ったんです。とにかく考え違いをしてもらっちゃ困る、この会議はコミュニティでエイズ対策の現場にいる人たち、 HIVに感染している人たちが、積極的に参加できるものでないと成り立たない。それが嫌なら、横浜でなくバンコクでやってもかまわない。ボストンの会議だってアムステルダムに行ったわけだし、かなり強気の申し入れだったようで、状況を総合的に判断すると、日本にとっては自らの意識改革の契機になる比較的良い外圧だったのではないかと思います。

二人の要求は、まず事務局と同格でコミュニティの参加を促進する受け入れ窓口を作ること。それがコミュニティ・リエゾン委員会でした。そして、そのリエゾンの代表に日本のHIVコミュニティを代表する人物を起用してほしいという条件が付けられた。プログラム委員会で山形さんは、実はこういう話があってとにかく、リエゾンは作ります、誰か代表的な人を起用しますと説明しました。山形さんにはそれ以前からエイズ対策の NGO関係者にも知り合いが多く、誰を起用すればいいのか、ある程度分かっていた。それで、池上さんにお願いしたいという提案があり、そう言われては文句も言えないな、誰が鈴つけるの?ということになり、私が密命を帯びて池上さんにお願いしに行きました。

宮田一雄氏神田のあまり高級とは言えない中華料理店で、ねえねえ、やってよ、池上さん、とお願いし、引き受けてくれたら一人だけ苦労させるようなことはしないとか調子のいいこと言って承諾を得ました。実際にリエゾン委員会のバックアップ委員会みたいなものも作り、カウンターパートの厚生省の担当者も理解のある人だったので、いよいよ動き出すぞということなった。その段階で私にはニューヨーク転勤の辞令が出てしまい「後はよろしく」ということで、みなさんの苦労はどこ吹く風でニューヨークに行きました。まったく信用ならないやつなんですよ(笑)。

ということで 1994年にぷれいすができたときはニューヨークにいました。この年に、ニューヨークではストーンウォール暴動 25周年というのがありました。 1969年にジュディ・ガーランドが亡くなり、ニューヨークのゲイコミュニティの人たちがみんなしんみりしていたときに、グリニッチビレッジのストーンウォールインという居酒屋に、警察の手入れがあった。こんなときに手入れするとは何事だということで、抵抗したり逮捕者が出たりして、 3日間くらい大暴動が起きました。いわゆるゲイライツの大きなムーブメントのきっかけの事件です。それを記念する主催者発表 100万人という大パレードに、私は取材だか好奇心だかわかんないけど南定四郎さんやアカーのメンバーと参加した。朝9時に最初のグループが出発して夕方5時になってもまだパレードが終わらない。本当にたくさんの人が参加したパレードだったんです。

この年の 7月には、国連で、 WHOやUNDPやユニセフなんかがバラバラにエイズ対策をするのではなく、共同でエイズプログラムを行おうという決議がありました。これがのちの UNAIDSになります。そして、 8月に横浜会議があって、12月にパリエイズサミットがあり、GIPAが打ち出されました。GIPAの重要性は横浜会議の準備過程で認識され、その具体的な動きの見本みたいなものがコミュニティ・リエゾンで、なおかつ、それを契機に出発したのが、ぷれいす東京です。国際的にも素晴らしいことでした。

その頃、ニューヨークでゲイのアクティビストたちの中でどうしていたのかというと、完全に浮いていました(笑)。当時はアクトアップが毎週月曜日の夕方に開いていたジェネラルミーティングに毎回、 300人くらい集まっていてすごかった。でも、 1996年の冬くらいには 20人くらいになっていた。 HAARTが効くことが分かりだし、関心が治療のほうに行っちゃったかなという感じです。

エイズ対策の基本的な考え方は、 1980年代の初めからゲイコミュニティが、それこそ血と涙の中で作り上げていった。たとえば GIPAもそうだし、セーファーセックスもそうです。感染しているやつはセックスなんかしなきゃいいんだと言われるような中で、ほんとうにそうなんだろうか?ということで一生懸命考えて生まれたのがセーファーセックスという思想です。あるいは “Living with HIV” HIVとともに生きるという考え方もそう。そういったものを必死に生み出して、それが我々のエイズ対策の大きな財産として継承されている。ほんとうに今でも足向けて眠れないですよ。いまだにホモフォビアは強いけれど、ゲイの人たちには好印象を持っている、おじさんとしてはそんな感覚です。

●HIV/エイズとメディア~変わったこと変わらないこと
私は新聞記者なので、報道とかメディアに関わる観点で少し話したいと思います。

HIV/エイズの流行というのは非常に長い現象ですよね。 1980年代から 30数年経っているわけです。その中で、 HIV/エイズ対策としてかなり大きく変わったことがあります。いわゆる「脅しの対策」というものが初期にはかなり強かった。感染爆発しちゃうぞとか、セックスばかりやってると感染しちゃうぞとか。感染したら人間として生きていけなくて、死んだ方がましとまで言われるほどの脅しで、予防の成果をあげようとしてきた。それに対して、別の考え方を示した。 HIVに感染した人が社会の中で生きている。その現実を踏まえて対策を組み立てていく。それが予防にもつながる、自分は何を防ごうとしているのかというリアリティも持てるようになる。まさに Living Togetherの考え方だし、ぷれいす東京の考え方だし、そういったものが長いタームで見るとかなり浸透してきている。そういう意味で、ぷれいす東京や JaNP+や aktaの活動は非常に大きかった、決して小さいものではないと思います。

変わらないのは、例えば、 2003年SARSの流行、 2009年 H1N1の新型インフルエンザの流行のときのこと。小流行であっても社会のあのオタオタ振りは何なのという感じです。これって HIV/エイズの最初のころと全然変わってないじゃないかって。 SARSの場合、日本でひとりも感染していないのに、大騒ぎになり、地下鉄まで消毒してまわっていたし、新型インフルエンザだって特定の高校の高校生は街を歩けないような雰囲気になるとか、こうした反応はあまり変わってないなと思います。

私は国内の HIV/エイズの流行の比較的、早い段階で報道にあたっていたので、そのときのメディア的な状況に対する違和感を持つことになったし、長く続く現象として継続して HIV/エイズの報道に関わっていくこともできた。しかし、 HIV/エイズに対する関心が大きく低下している今、もしかしたらそういう感受性すら低下してしまうということもあるかもしれません。その中で、 Living Togetherとか予防と支援の両立とか言っていると、どこかで激しい反作用がおきるかもしれない。社会ってどうころがるか分からないということを頭におきながら、やはり関心が低下しないように発信はしていかないといけないなと思います。
会場風景

ぷれいす東京Newsletter No.82(2014年8月号)より

池上 千寿子 樽井 正義 根岸 昌功 宮田 一雄

池上 千寿子(ぷれいす東京)樽井 正義(慶應義塾大学名誉教授)根岸 昌功(前都立駒込病院感染症科部長/ねぎし内科診療所院長)宮田 一雄(産経新聞編集委員)

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