ぷれいすコラム

おかげさまの再出発

長谷川 博史

自分のHIV 感染を知ったのが今から24年前、39歳の時だった。その後、3つのゲイ雑誌の創刊プロデュースと編集長を務め、10年経ったところで編集の仕事から足を洗い、HIV 陽性者ネットワークJaNP+を立ち上げた。その代表の座も後継に譲り、少し都心から離れた場所に居を移そうとした時に思いもよらぬ問題に直面した。

僕はHIV感染が判った翌々年に糖尿病が悪化してることが判り、それ以来、十数年間治療を続けて来た。その末に、腎臓はまったく機能不全に陥り、1回4時間の透析治療を週3回受けることになっていた。しかし、転居先から通院可能なエリアにHIV陽性である僕の透析治療を引き受けてくれるクリニックが見つからなかった。

40軒の透析クリニックから立て続けに断られた。精神的なタフさには自信が有った僕もさすがに疲れ果て、そのうちに鬱を発症して身動きが取れなくなっていた。正直、当時の僕は生きる気力も意欲もすっかり無くしていた。とうとう抗HIV薬を勝手に中断し、しまいには透析も1週間ボイコットする始末。

当然、身体的にも大きな変化が起こる。まずそれに気づいたのが主治医と親しい七人の若い友人達だった。僕自身が鬱だと気づく前に彼等が僕の異変に気づき、僕の救出に動いてくれた。そんな友人達の心配や努力にも関わらず、相変らず生きる気力を持てなかった僕は、とうとう昨年の3月自宅で倒れている所を救急搬送された。結果、一命は取り留めたものの、かねてから悪くしていた右足を切除することに。

すると今度は退院から社会復帰の計画を立てる必要が生まれて来た。そのためにはまず、片足の生活に慣れるためのリハビリが必要で、さらに退院後の透析も考えなければならない。そこで病院のソーシャルワーカーのAさんが透析とリハビリの両方が可能な現在の病院を探してくれた。そして、その病院のソーシャルワーカーに僕のその後が託された。この二人の絶妙な連携が無ければ、僕は再び受け入れ先と住まい探しをゼロからやり直すことにもなりかねなかった。そしてその時は福祉関連の手続きもすべてやり直すことになる。

リハビリ入院を終える5ヶ月間にそこの医師やソーシャルワーカーをはじめとする関係者の話し合いがもたれた。そこには新宿区の福祉担当者や僕を救い出してくれた友人たちの代表者も参加した。またこの一連の作業についてはぷれいす東京の生島さんに相談し、問題を共有していただいた。

ここまでは一見、順調かに見えた。しかし、新居探しでつまずいた。退院後も中野区のこの病院で透析治療と送迎サービスを受けるにはその範囲内に住む必要がある。そしてこれまで進めて来た一連の福祉関係の手続きを無駄にしないためには現在の居住区を移動することは出来ない。しかも「高齢×単身×障がい者」と言う三重苦。住まい探しに関してこれほどの悪条件はそうそう無い。

そこで活躍してくれたのがぷれいす東京に紹介していただいた協力不動産業者のKさん。こんな悪条件の中で予算内の物件を探して来てくれた。その途中では借り主である僕の状況を伝えて貸し主側の不動産業者から断られたことが何度もあったようだ。そして現在の僕は週3回、病院の送迎車に乗せられて区境を越えて超えて透析に通っている。福祉に関しては要介護2の認定を受け週3回ヘルパーさんの訪問で片足では困難な家事や、転倒の危険性の高い入浴の見守り介助を受けている。おかげさまで、ほんとうにみんなの「おかげさま」で生き延びている毎日だ。

医療機関や行政の公的なサービス、つまり「公助」は最大限利用させてもらうことにした。そして友人達とコミュニティの支援組織であるぷれいす東京の力強いサポートは、ありがたいことに「おたがいさま」と言ってくれる。つまりこれは「互助」。最後に必要となるのは「自助」。行く先は不明瞭ながら、僕は想定外の老後に向かって歩み始めた。ほんとうにみんなの「おかげさま」で。

ぷれいす東京Newsletter No.89(2016年5月号)より

長谷川 博史

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