HIV陽性者である”私の”手記
手記・朗読 だいすけあ/福正大輔
わたしはHIVpositiveです。24歳の時に診断され、17年がたつところです。
感染した当時、一緒に暮らしているパートナーがいました。しかし、私は自分勝手なセックスライフを謳歌していました。掲示板や発展場で知り合った人とリスクの高い性行為をしていました。私は、ゴメオDIPTや覚せい剤をつかったSEXをしていました。危ないと思えば思うほど、心がわくわくしていました。
SEXをした友人から「HIVにかかったみたい。俺は大輔としかやっていないから、たぶん大輔もHIVだと思う」と言われ、一緒に拠点病院にいきました。診断を受けたときには、眠れなくなり、3日間ベッドのうえでのたうち回っていました。パートナーにはHIVに感染したことを伝えました。すると、「許せない。でも、大輔のことは大事だから、これからも一緒にやっていこう」という手紙をもらいました。それから10年以上一緒に暮らすことになりました。HIVの診断を受けてから1年くらいは病気のことが気になって、誰とも性行為をしなかったと思います。しかし、いつの間にか「もうどうせ病気だから」と、さらにリスクの高い性行為をするようになりました。名前も知らない相手、ときには顔もわからない相手とコンドームをしない、体を傷つけあうようなSEXをしました。HIVのことは、SEXの相手にも友人にも家族にも、誰にも言わずに生きていくんだと決意していました。
29歳の時に覚せい剤取締法違反で逮捕され、有罪判決を受けました。そこから私の人生が変化していきました。自分が依存症であること、自分が自分を傷つけることで生き延びてきたことが理解できました。仲間のアドバイスを受けながら、自分がどんな行動をすると生きやすくなるのかを考えるようになりました。私が見つけたのは、「自分にうそをつかない、本音で生きる」という目標です。まず取り組んだのが、「埋め合わせ」です。20代の時に傷つけた相手に連絡をして謝罪をしました。できるだけ会って話をして、今の生き方を見てもらいました。もう連絡が取れない人もいます、連絡をしても無視される人もいます。当然です。私がしてきたことは相手の「尊厳」そのものを傷つけてきたのです。
「埋め合わせ」をする中で、うそをつかないで生きることは、気が楽になることだと実感していきました。自分の思ったことを相手の状況を考えながら話すことがどんなにステキな事かもわかりました。このままいけば、何の問題もなく自分が幸せになれるのかもしれないと思っていました。嘘をつきたくないので、HIVpositiveであること少しずつ公表しようと思い立ちました。
2020年秋、信頼できる場所からと思い、新しく通い始める歯科医院でHIVpositiveであると問診票に書いて受診しました。一通り検診をした後言われたのが、「うちはB型肝炎の人は治療できるがHIVの人は治療できない、そのような設備がない」ということでした。頭を冷たいものでぶん殴られたように、耳の中がキーンとしました。できるだけ冷静に歯科医院でスタンダードプリコーションや人権の話をしたと思いますが、よく覚えていません。怒りは数日収まらず、歯科医師会・法務省人権相談・市役所医事課と立て続けに連絡をして、それでも解決する糸口は見つからず、ぷれいす東京に相談の連絡をしました。わたしは歯科医院を訴えて、反省してもらうことばかりを考えていました。
ぷれいす東京で相談し、活動するようになって、わたしの考えは変化していきました。「わたしはわたしの闘い方がある」と思い、演劇と映画をつくることにしました。わたしは18歳で広島県呉市から東京に出てきました。俳優になるために、演劇専攻のある大学に入学しました。芸術は武器になると思いました。それは反省させるためにやるものではなく「一緒に考えてもらうため」に作るんだと決めました。映画は「カミングアウトジャーニー」、演劇は「結婚披露宴」という作品になりました。作品づくりは苦しいときがあります。そんなとき、HIVpositiveを公表して活動する先輩に勇気をもらいました。みなさん、語る姿が誠実で、なんとも魅力的でした。わたしもこんな風になりたいと思いました。
私は、2022年夏、母にカミングアウトをしました。ゲイであること、HIVpositiveであること、そして、今おつきあいをしている男性がいること。母は、昔の写真をいじくりまわすだけで、目を合わせてはくれませんでした。「ああ、失敗したかな」と思いましたが、やり始めたカミングアウトは最後までいくしかありません。全部の話をききおえて、母は、「まあ、しょうがない。代わってあげることができるわけじゃないし」といいました。いつもの母のいいっぷりに私は安堵しました。私の母は、周りの人によく「強い人」と言われます。わたしはそうは思いません。「わからないことをわからない、どうしようもできないことをどうしようもできない」と、ありのままに受け入れる力がある人なのだと思います。この力のことを「ネガティブケイパビリティ」というそうです。私の母は、ものすごい能力を持った人なのだと、今は思います。
カミングアウトをした時に、母にどうしても伝えたいことがありました。それは、「いま、大輔はとても幸せだよ」ということです。それをどうやったら具体的に、楽しく伝えられるかと考えた結果、パートナーに直接あってもらうという方法をとりました。カミングアウト場面で、パートナーにサプライズで登場してもらいました。今まで顔をあげてくれなかった母が、ものすごいスピードで顔を上げ、穴のあくほど私のパートナーを見つめました。その表情はとても楽しそうで、目はきらきらとしていました。「むかしから“恋バナ”好きだったよなこの人」と思い出しました。すぐにパートナーと母は打ち解けて、あれこれおしゃべりをしてくれました。私は、その光景がうれしくて、しあわせで、思い浮かべるだけで、「ああ、ここに、この時代に、生まれて来て良かった」と思うのです。
HIVになったとき、依存症だと理解した時、捕まった時、差別を受けたとき…わたしはどうして自分はこのような状態になったのか、こんなはずじゃなかったと思いました。しかし、いまは「しあわせ」を知るための必要なプロセスだったのだと思います。私の人生には価値がある。私の人生のプロセスには、自分以外の人のためになる力があると思います。ぷれいす東京の仲間に会うために京都に行きました。龍安寺というお寺に「吾唯足知(われただたるをしる)」というつくばいがあります。まさに、わたしは毎日この境地にいるのだと思います。
人生に大切なことはそんなに多くありません。しかし、わたしには必要なものがまだあります。それは、愛です。そして、社会的な存在として病者や同性愛者の権利が認められることです。私が欲しいのは、すでに一緒に生きている人の差別のない社会と同性婚が認められた社会です。今日はそんな思いを込めて歌います。
※2023年5月14日(日曜) 第61回 「Living Together のど自慢 」にて