陽性者と家族の日記 “鳥前 進”

明けない夜はない

鳥前 進

緊急事態宣言が発令された東京は静かな夜を迎えました。
明けない夜はない。
東京が、日本が、そして世界が、輝きを取り戻す時が訪れることを信じて。

We are already blooming together

鳥前 進

We are already blooming together
咲き誇ろう、あなたも私も。ここで。

「今ここで人生が終わっても何の後悔もない」

鳥前 進

先日、家でのんびり過ごしていた時に、こんなことを思いました。今ここで人生が終わっても何の後悔もないなと。僕には何としても守らなければならない人や、財産や、社会的地位なんてものは何一つない。けどそれは悲しいことではない。僕が生きていることが何かの前提になっていたら、寿命を全うするために毎日欠かさず薬を飲まなければならない僕にとってそれは耐えがたいプレッシャーだし、大切な人たちが重荷になる人生なんてむしろ嫌だから。

そういえば前にも同じことを思ったような気がします。それは確か、HIVに感染していることが発覚して間もないころ、「治療しなければいずれエイズを発症し死に至る」ことを受け入れ、感染前よりも身近になってしまった「死」について考えたときでした。治療しないという選択肢が自分にあったわけでないけど、万が一治療がうまくいかなかったり、何らかの事情で通院をやめざるをえないとき、その先に待ち受けるもの、つまり死ぬということを自分なりに理解したかったのでしょう。

2017年2月に感染がわかって3年が経って、なぜまた同じことを思ったのでしょうね。弟夫婦に第一子が出来たからでしょうか。きっかけはたぶんそうなんだけど、自分にはそういうものが何もないから不安に思わなくて良いということを再確認したのと、1歳年下の弟に比べて自分は結婚や子育てのような人生の重大な決断を何もしていないことが悔しくなってヤケになったというのは、死を意識したときとは明らかに違うことだけど。

次の日の晩に、親を誘って食事に出ました。弟夫婦の件で、親はさぞ喜んでいることでしょう。一方で、目の前に座っている長男はゲイで、HIVに感染していて、今ここで人生が終わっても何の後悔もないと思っている。そんなこと親が知ったら悲しむよ。悲しむどころじゃなくて取り乱すかもよ。いや、言わなきゃ弟と同じことを期待され続けて苦しいだけだよな。じゃあ言ってみる?“生きるのに精一杯”だと知ったらただ生きているだけでも感謝されるかもよ?

そんなことを自問自答しながらも、親と卒なく会話するし、目の前の料理を美味しくいただく自分もいるのです。これで良いんだと思いました。僕が生きる目標は美味しいものを食べること。大切なものを守る覚悟はあるのか、とか、意味ある人生を歩んでいるかとか、そんなこと考えたって分からないし。よる10時になれば薬を飲んでとりあえず生き永らえようとするし、あさが来れば仕事しに出かけるし、仕事すればちょっとは意味のあることをしたいと思うし、お給料が出たら美味しいものを食べる。そして、気が向いらたこうやってぷれいす東京の日記を更新する。何の後悔もない人生。良いじゃん、それで。

服薬を希望するが開始できないでいた経験 〜2020年1月19日「日本のHIV陽性者から見たU=Uの光と影」より

鳥前 進

1月19日にU=Uキャンペーンの創始者であるBruce Richmanさんをお招きして語り合うイベントがありました。僕も当事者の一人として、「服薬を希望するが開始できないでいた経験」についてお話しする機会をいただきました。以下、僕がお話しした内容を記載します。(Bruceさんや他の当事者のお話を聞いたうえで「改めてこの場でお伝えしたい」と感じた内容を含みます)

**********

服薬を希望するが開始できないでいた経験 鳥前進

本日はこのような機会をいただき大変嬉しく思います。「U=Uの光と影」とのことですが、お話しする内容としては、U=Uの影の部分、正確にはU=Uによって改めて浮き彫りになった日本の福祉制度の影の部分に焦点を当てていきたいと思います。それでは、感染が分かってから今に至るまでの気持ちの移り変わりも交えて、お話しさせていたただきます。

<自己紹介>
簡単に自己紹介をいたします。
東京都在住の会社員です。2016年11月に感染のきっかけがありました。当時付き合っていた人との性交渉です。2週間後、初期症状(高熱、激しい喉の痛み、関節の痛み、発疹、病院で2回インフルの検査を受けていずれも陰性)を経て17年1月に保健所での検査をうけ、2月1日に「あなたはHIV陽性です」と告げられました。すぐに通院を開始しましたが、服薬を開始したのは19年4月です。服薬開始後すぐに検出限界以下となりましたが、10月に採血した結果を次の通院の時に聞くので、検出限界以下の状態が6ヶ月続いているのか、性交渉によって他人に感染させることはないのかはまだ分りません。

<2017年>
最初の通院は2月で、このときのウイルス量は170、CD4は500を少し越えるくらいでした。その後1ヶ月おきに通院していましたが、ウイルス量は下がり続け、CD4は600台をうろうろしていました。主治医から「治療はすぐには始まらない。可能な限り早く始めるかギリギリまで待つか選べる」と告げられ、僕は「早く始めたい」と答えました。
すぐに治療が始まるものと思っていましたので、拍子抜けしました。でも、治療のタイミングを選べるということは、身体はまだまだ元気だということでもあり、「服薬まで心の準備ができて、早期発見できてよかったな」と、自身の状況をプラスに捉えていました。

<2018年>
特に大きな変化なく1年が経過しました。2018年はいろんなことを考え、気持ちが大きく変化した1年でした。

年明け早々の通院では、CD4は600台で変化はありませんでしたが、ウイルス量は1,000を越え、文字通りケタ違いの変化に驚きました。主治医からも「身体障害者手帳の申請をしてみませんか」と提案されそれに応じました。春ごろ、診断書を作成してもらい、身体障害者手帳の申請をしましたが「障害等級の認定基準を満たさない」との理由でいったん保留となり、東京都社会福祉審議会での協議に移りました。主治医も僕も、協議しても申請は通らないだろうと考えていましたし、基準を満たさない申請の事例を積み上げることに意味があるのだろうとも思っていました。ただ、やはり通院から1年以上経過し、いつまでこの状態が続くのだろうかという漠然とした不安をいただくようになっていました。

夏、U=Uを知りました。とても画期的でした。これまでの社会生活に加えて、恋愛も諦めなくて良いのだと、非常に勇気づけられました。同時に、僕にHIVをうつした彼は治療を受けていなかったことも明らかになりました。実は、当時の交際相手は、自身がHIVに感染していることを知りつつ僕と性的接触を持ち、僕はHIVに感染しました。僕自身の感染がわかったその日に、彼にその事実を伝えたら「知っていた。やっと共有できて良かった」との返事でした。彼がHIVに関する正しい知識を持っていたら、彼がU=Uを知っていればーー僕にうつした時はU=Uを知る由もなかったのだけどーー、HIVへにきちんと向き合えただろうし、こんな極端な行動は取らずに済んだのではないかと、思いを馳せることもしばしばありました。

10月、「障害等級の認定基準を満たさない」ことを理由に手帳申請は正式に却下されました。このころ、自分の周りの人で治療が始まる人たちがどんどん増えていくような感覚に陥りました。隣の芝生が青く見えていただけなのだと、今は思うのですが、僕よりも後にHIV感染が発覚した人たちが僕よりも先に治療をはじめ、早々に検出限界以下を達成していく一方で、僕は、ウイルス量が2,000〜3,000あたりで推移し、CD4は変わらず600台、体調に変化なく、治療を始めたいと思うのに始められない状態はおかしいと確信するようになりました。

その後も、自分の周りに対してうがった見方ばかりしてしまっていました。主治医は改めて治療を早く始めたいか僕に聞いてくる。どう言うつもりで聞いているのだろうか。何度でも言う。僕の答えは変わらない。「早く始めたい。ただ、手帳がない状態での服薬開始は考えていない」ーーなぜ自分は治療が始まらないのか、このまま放っておいても病気は治らないのに。なぜ周りの人たちばかり先に進むのか。自分には普通の生活を送る資格はないのか。いっそのこと、早く体調が悪くなってくれれば治療が始まるのに。苛立ちの矛先が次第に自分自身へ向いてきてしまっていたのでした。

<2019年>
通院開始から2年が経ちました。体調の変化は突然訪れました。ウイルス量21,000、CD4は409。主治医は「これ以上は待てない」との判断で、診断書をあらためて作成してもらいました。今度は認定基準を満たしています。申請から1ヶ月弱で手帳と自立支援医療の手続きが完了し、3月に手帳取得、4月から服薬開始となりました。
色んなことを思いましたが、治療が始まることは素直に嬉しく思いました。治療を続ければ、その先にはU=Uが待っています。今まで手が届きそうで届かなかったU=Uが、自分にとって明確な希望へと変わりました。ただ、結局は体調が悪化しない限りは治療が始まらなかったことに関しては、非常に残念に思っています。

<メッセージ>
これまでの経験を通して、私が皆さんや世の中に伝えたいことは次の通りです。
・HIVはU=Uに関わらずコンドームによって感染を防げるものであるが、「検出限界以下である」ことと「そうでない」こととの間には明確な隔たりがあり、当事者にとってその隔たりは非常に大きい。
・HIVの検査を受けることは一般市民にも少しずつ浸透しつつあるように感じるが、U=Uを知る人は当事者の世界でも少数派。新規感染者の発生を減らすためには、「検出限界以下」であることが他者にとって安全であることを多くの人が知っていることが必要。
・医師は、患者に対してU=Uであることを必ず説明してほしい。そのうえで、治療の開始時期を患者に選ばせてほしい。もちろん、すぐに治療をはじめられない福祉制度は早急に改善されることを望む。

ありがとうございました。

FMおのみちさんの「2019年世界エイズデー特別番組」で僕の日記が朗読されました!

鳥前 進

昨年11月に放送された番組をいまになって紹介するという凄まじいタイミングの悪さをお許しください。

FMおのみちさんが2019年11月25日から29日まで放送していた特別番組「尾道市特別番組 世界エイズデーinおのみち 尾道でHIV/エイズ・性感染症を考える」で、11月27日と28日の放送にて僕が書いていた日記を朗読してくださいました!

僕は東京在住で放送された時間帯がちょうど仕事中でもありリアルタイムで聴くことができなかったのですが、さきほどFMおのみちWebにて聴かせていただきました。
みなさんもぜひ、FMおのみちさんのWebサイトから番組を聴いてみてください。
HIV・エイズを正しく知り、正しく予防し、正しく向き合っていきませんか?

◆FMおのみちWeb > 2019年世界エイズデー特別番組
http://www.fmo.co.jp/2019/11/20-104603.php

◆朗読いただいた日記
あす拠点病院へ行く2年前の自分へ(11月27日放送)
ありたい未来を実現できるかは、自分次第。(11月28日放送)

※朗読いただいたときは「さしみ」という名前で日記を書いていましたので、番組内では「さしみ」とご紹介いただいています。

2020年もどうぞよろしくお願いします

鳥前 進

2019年はどんな年でしたか。
僕は2年間待ちに待ったお薬がようやく始まり、HIVとの向き合い方が大きく変わった1年でした。
2020年は、この日記での活動を含めて、HIVに関する発信をより進めていきたいと思っています。

さっそくですが、1月19日「日本のHIV陽性者から見たU=Uの光と影」にて自分の経験をお話しさせていただきます。
このような場で自分の経験を話すのは初めてですが、HIVを取り巻く環境が少しでも良い方向に変わることを期待して、精一杯取り組んでまいります。

これまで多くの人に支えてもらったおかげで、HIVとも向き合い、今日を迎えることができました。
2020年は、一人でも多くの人の力になれますように。

ゲイであることも、HIVキャリアであることも、誰にも非難されることではない

鳥前 進

「ノボルのお墓参りに一緒に行きませんか」
先月、ノボル(仮名)のお姉さんから2年ぶりに連絡があった。どこかで生きていてほしい、これまで秘密にしてきた「現実」ときちんと向き合ってほしい。そう願っていたが、お姉さんの優しいお誘いは、同時に残酷な現実を僕に知らしめた。

**********

ノボルは僕の恋人だった。僕とは正反対で、ユーモアにあふれ、思い立ったらすぐに行動するタイプの人。そんな彼にも、誰にも打ち明けられない秘密が2つあった。一つは、僕も世間に対して秘密にしているセクシャリティ。そしてもう一つの秘密は、僕の誕生日を祝ってくれた夜に、僕も気づかぬうちに望まない形で「共有」することになった。

秘密を共有してから2週間が経過したころ、僕の身体に異変が起きた。1週間近く続く40度近い発熱、激しいのどの痛み、関節の痛み、2回実施したインフルエンザの検査は陰性――僕はノボルと距離を置くことにした。そして2カ月後、僕は都内で抗体検査を受け、ノボルの秘密を知った。秘密を知ったその夜、僕はノボルのもとを尋ねた。そして、別れることにした。

別れた後の僕は、すぐに通院を開始した。同じ秘密を抱えた人たちとも積極的に意見交換をし、少しずつ前に進む努力をした。同時に、前に進めずに一人で長い年月もの間「秘密」を抱えてきたノボルのことを想った。どうやったら彼を現実と向き合わせることができるだろうかと――別れてから半年後、「ノボルが自ら命を絶った」とノボルのお姉さんから連絡が入った。

**********

待ち合わせの場所で、ノボルのお姉さんはお花を携えて僕を待っていた。僕は「亡くなった」と聞いただけで、お葬式にも呼ばれなかったし、お墓の場所も聞いていなかったので、ノボルがこの世からいなくなったなどということを信じ切れずにいた。しかし、目の前の女性の出で立ちは、「私が嘘をつくわけがない」と言わんばかりに、信じきれない現実を僕に突き付けてきた。

駅からタクシーに揺られ、都心らしいこじんまりとした墓地についた。一目で新しいものだとわかるほど輝きを放つ石の下でノボルは独り眠っていた。僕はノボルは生前に置かれた状況を思い出した。僕と秘密を共有したものの、ノボルの考えは僕には受け入れられず別れることになった。家族には秘密が2つとも明るみになり、もはやどこにも居場所はなかった。そして亡くなった後も、一人の若い男性には不釣り合いなほど立派なお墓に「葬られている」――

涙が頬を伝わるのを感じた。頬を手でぬぐう。お姉さんのほうを見ると、何かを話し始めようとしたけれど、嗚咽が止まらないほど激しく泣いてしまい、言葉にならなかった。後で話を聞いたが、ノボルが納骨されてから誰もお墓参りに来ていないそうだ。納骨に立ち会わなかったお姉さんにとって、今回が初めてのお墓参りだった。

**********

ノボルへ。君がほかの誰かからHIVをもらったと知ったときにどんな気持ちだったか、僕には分かります。君が僕にHIVを移したのは、ただ分かってくれる人が欲しかったのだということも、僕には分かります。誰かにHIVを移すことでしか自分の気持ちを共有できない状況に置かれていた君のことを、僕は同情します。ゲイであることも、HIVキャリアであることも、誰にも非難されることではないのに、「無理解」な「世間」に「殺され」た君の死を無駄にしたくなくて、君との出来事をここに公表することにしました。また今度、お墓参りに行きます。

気づいたらお薬が始まっていました

鳥前 進

前回の日記から4か月空いてしまいました。2月の時点では一体いつ薬が始まるのか見当もついていませんでしたが、3月に手帳は発行され4月からお薬を飲み始めました。薬を飲まずに過ごせた期間は2年強。ゆっくり心の準備をしていこうと思っていましたが、実際のところはあれよあれよという間に服薬に対峙しなければならなくなり相当な心の葛藤がありました。

一刻も早く服薬を始めたいと思っていたのに、いざ薬を手にして飲もうとすると「一度始めたらやめられない」という事実が重荷に感じられてしまい、休みの日に丸一日決心がつかなかったこともありました。薬を始めるタイミングを選べなかった人からしたらぜいたくな悩みに聞こえるかもしれませんが「考える暇もなく服薬が始まったほうが僕にとっては良かった」とこれまでの経緯を振り返るとそう感じてしまいます。

いまは服薬が始まって1か月ほど経ちましたが、すぐに20コピー未満になったし、CD4の数も過去最高値を記録しました。最初に処方された薬の副作用が強く、別の薬に切り替えることになりましたが、体調は良好です。これからは今まで遠慮がちになっていたことに対しても少しは積極的になれることを期待しています。

あす拠点病院へ行く2年前の自分へ

鳥前 進

2年前の今頃、君は検査室でHIV陽性の宣告を受け、紹介状をもらい、あした拠点病院へ行くところだと思います。宣告されてから2日間、君は普段どおり出社し平静を装っていたけど、頭の中では常にHIVのことばかり考えていましたね。この2日間ろくに眠れていないのに、今もまったく眠くならない。そんな君に、これからの治療の参考になることを願って、少し長くなるけど自分の経験を伝えておこうと思います。

まず君は朝8時の受付開始に合わせて拠点病院へ行くつもりでしたが、病院には10時半に着きます。ここ数日、ろくに睡眠もとれていないと早起きは難しかったでしょうね。そして紹介状を握りしめ受付に向かいます。「HIV感染」と書かれた紹介状を見ても表情一つ変わらない病院の人に「やっぱプロはすごいな」と感動します。

受付を済ませると、看護師さんに呼ばれ、別室で感染のきっかけやセクシャリティ、自分の性行動、現在の体調についていろいろと聞かれます。自分でも驚くほどスラスラと答えます。いや、その看護師さんがすごく優しくて、元気をもらえたからこそ、正直にすべてを話そうと思えたのです。(看護師さんは女性なので変な期待を膨らませないこと)

けど、そんな看護師さんの前でも、「相手は誰だかわからない」と、唯一嘘をつきますが。

その後、超忙しそうにしている医師が病棟から外来にすっ飛んできます。その人が君の主治医になる人です。結構飄々と、そして淡々としています。でも事務的というわけではありません。ちゃんと話を聞いてくれます。医師と患者とのちょうどいい距離感を保ってくれる先生です。2年後もその先生にお世話になっています。結構好きです。

今日はたくさん検査を受けます。血液を何本もとられ、心電図の検査を受け、尿の検査も受けます。そして最後にさっきの看護師さんがHIVに関するいろいろな資料をくれます。そして「ネット上には間違っていることもたくさん載っているから、ちゃんとした資料から正しい知識を得るように」と教えてくれます。ぜひその通りにしてください。

会計では「保険適用で」3万円と言われます。会社にばれたくないからと言って保険証を出さないなんてことはしないように。健保から会社に社員の受診歴が伝わることは絶対にないから。

その後もしばらくは1ヵ月おきに通院して、血液検査の結果を聞きながら体の状態を知ることになります。HIVに感染していること以外に問題はなく、ウイルスの量も少ないし、免疫の状態も悪くないから、そこは安心してください。また、障害者手帳の申請のこととかは、病院にソーシャルワーカーさんがいて、その人と相談できることになっています。このワーカーさんも優しい人で、安心してすべてを話せますよ。(このワーカーさんも女性です)

ちなみに、君の場合は、身体の状態がそこそこいいので、まだ治療は始まりません。正確に言うと、身体障害者の基準に身体の状態が達していないので、障害者の認定を受けられません。その状態で少なくとも丸2年過ごすことになります。すぐに治療を始められると思ってるだろうけど、そう簡単には事は運びません。でも服薬せずにいられる期間は限られています。貴重な時間を大切に過ごしてください。今月は3ヵ月に1度の通院なので、何か変化があったら教えますね。

そして、未来の僕に聞きたいのですが、お薬はいつはじまりますか。それまでに大きな体調の変化はなく、無事に過ごせていますか。主治医とは未来でもうまくやっていますか。気が向いたら、この場を借りて僕に教えてください。よろしくお願いします。

2019年もどうぞよろしくお願いします

鳥前 進

気づいたら年が明けていました。

年末ジャンボ宝くじは(予想どおり)外れました。HIV関連の活動のこと以上に「会社辞めて海外に移住」みたいなことばかり考えてたのが悪かったのかもしれません。今年は「巨額の資金を投じた」活動は難しくなりました…

感染が分かったのが2017年2月。当時は積極的に情報を集めようとして病院のソーシャルワーカーさんにしつこく予約を入れたり、ぷれいす東京の活動に参加したりしていましたが、2018年は精神的に落ち着きを取り戻したせいか、HIVに関しては定期的な通院以外ほとんど何もできてませんでした。2019年はぷれいすでの活動ももっと積極的にしたい。自分の経験とかを伝えられる側になりたい。お金もかからないしね(笑)